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秋桜を見ながら

「記事の完成を楽しみにしています」「こちらこそありがとうございました」
 そう言って、箱根の仙石原にある温泉旅館の女将に対して静かに頭を下げたのは、赤い袖付きの半そでシャツを着て、ジーンズを履いた温泉ライターの西岡信二。
 小田原で借りたレンタカーに乗り込むと、箱根から次の目的地である熱海を目指してエンジンを回して走り出す。

 信二の隣には、いつしか交際が始まっていたフィリピン人のニコール・サントスが、白いブラウスに濃いピンクの長いスカート姿で助手席に座っていた。この日本来は取材として箱根と熱海を回っている。だが熱海の旅館では体験宿泊をすることになっていた。そこでモニターという名目で、ニコールを誘ったのだ。
「次は、熱海だ」「そうね。あ、箱根の旅館に来る途中で買ったクラフトビール大丈夫かしら」来日して数年たつニコールの日本語は、ネイティブに限りなく近い。
 
 車は仙石原から南に進む。やがて右手に湖が見えてきた。「ニコール。芦ノ湖が見えてきたよ」「そう、ね」「まあ箱根の場合は、大涌谷の温泉が日帰りであわただしかったけど、熱海はゆっくりできるね」「う、うん」
 信二は、あまり快い返事をしないニコールが少し気になる。確かにこの日は朝早くから出発し、レンタカーを借りて1軒目の取材で温泉の体験と昼食をとった。そのときは半ば仕事モード。ひょっとしてそれが気に入らないのだろうか?

「ニコール、今日は元気ないね。今日は仕事だからバタバタしてるけどな」「そうかしら」と元気のない声。「俺なんか昨日は大学時代の仲間と久しぶりに会って、ビアガーデンでビール飲んだけど、今日全然大丈夫なのに」と言ったところでちょっと声が変わったのは信二。「え?それ誘わなかったこと怒ってる?」しかしニコールはそれに首を横に振る。

「うん、ちょっと先週は疲れたの。それかしら」「店で何があったの?」ニコールは、あるクラフトビール専門店の店長。元はといえば、信二はそこの常連客だ。
「なんかね。この1週間、嫌なことが続いたの」「そうか、俺行けなかったからなごめん」「それはいいんだけど。ただ、いつも元気な常連客が暗くて、愚痴ばかりこぼしてきたわ」
「まあな。客なんて愚痴をこぼしに来るようなもんだからな。俺も昔はよくニコールにやってた。本当に接客業って大変そうだ」ようやくニコールが、単なる空返事から会話をしてきたので、信二の気分も楽になる。
「そう信二も知っているでしょう。ベレー帽の絵描き」「ああ、名前知らないけど、いつも赤いベレー帽の」「彼、筆を使って斬新な絵を描くじゃない」「知っている水墨抽象画とかいってたな」横で話を聞きながらハンドルを握る信二。コンマ単位でニコールのほうを向きながら運転を続ける。
「それが、この前出した絵画コンテストでは、『根本的におかしい』って、審査員たちに酷評されたんだって」
「そうか。絵なんて好みがあるからなぁ。俺はあれ面白いと思ったけど、いろいろあるんだろうね。そういえばピカソの絵も人によってはそうだろうし」
 ここでため息をつくニコール。すぐに話が続く。「4日連続来店してくれたけど、顔を見るたびその話ばかり。『俺の絵の良さがわからない奴らめ!』とずいぶん荒れていてさすがに疲れたわ。あのひと1年以上前から週2回以上来る常連だけど、あんな姿初めてよ」「そうか、本当にお疲れさんだな」

「でも、それだけじゃないの」「まだ何か?」「これは私ではなく店を運営している会社の問題だけど。先々週から出しているスペシャルビール」「ああ、あの濃い味のやつ」「そう、そのビールのネーミングがね。実はある店だけで、使えたものらしいんだって。だからその名前でうちの店が使っているって直接クレームの電話よ」「あらら」
「もちろんこれは私の責任の範囲外。だから、すぐ販売を中止して、社長に連絡したわ。それから話し合いをして、ネーミングを変えるということで、ようやく収まった」「良かったじゃないか。解決して」「でも、これに2日間振り回されて散々よ。私も落ち込んだわ。本当にもう店辞めようかと思ったくらい」「まて、それは!」
「冗談よ。でも社長に愚痴ったら、今度は創業者としての昔話聞かされて「昔話?」
「こんな感じよ」といって、口角を上げて社長の口真似、そのままやや低くて、野太い声をだすニコール。その表情がかわいくて仕方がない信二だ。

「俺たちのころはまだ地ビールと呼ばれていて、知らない人が多いから、『まずい』『高い』ばっかだった。挙句の果てには、『こんな店3か月でつぶれる』って言われたんだ。でもつぶれてないけど」

「3か月でつぶれるはひどいな」思わずハンドルに力が入る信二。ちょうど前の車の車間が知事待ったのでブレーキを踏んだ。
「だって、まあ社長の話は20年ほど前の時代だから、今よりもビールの質も悪かったのかもね。今の日本のクラフトビールレベル高いと思うから、その話聞いたら余計不思議だった」
「まあ、社長も昔は苦労したんだよ。でもニコールは、あの店でもっと頑張らないと」

「わかってる。あ、でも私が今日は、さっきから愚痴ばっかり言っちゃったかな。信二まだ仕事中なのにごめん」
「いいよ、でも今見たらニコールの表情良くなった。やっぱり溜まっていたものを吐きだしたからだ」するとこの日初めてニコールは笑顔になり、そして口元が緩んだ。

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 車は芦ノ湖を南に下り、そのまま箱根を後に。このまま山の尾根沿いに続く道をさらに南下すれば海に到達する。そこが次の目的地熱海だ。ちょうど十国峠展望台のケーブルカー乗り場の前を車は通過。
「そうだ、30分ほど寄り道しないか」突然信二が意外なことを言う。
「え?あ、私はいいけどで大丈夫?」「うん、1時間以上余裕があるから」
 そういうと信二は次の道で、左右に分かれているところに差し掛かると、熱海とは反対方向に車を進めた。

「ねえ、どこ行くの」「うん、この近くに素敵な花畑を見つけたんで、そこに行こうかと」「へえ、こんな山の中に花畑か。どんなところかしら楽しみね」
 やがて集落のようなところに、車が入ってきた。建物が両側を覆う。ここで速度を落としながら、「メルヘンの里」と書かれている場所を、指し示しているカーナビと睨めっこをする信二。
 しばらくまっすぐに進むと、突然山に囲まれた田園地帯がひろがった。そしてある一角だけ違っていて、色とりどりの花が咲いている場所がある。

「ここだ」というと信二は車を止めた。「ここなの。あ、コスモス!」ニコールは思わず声を出して車から出ると花のほうに駆け出す。そこには一面に赤やピンクのコスモスの花が咲き誇っていた。
「うわぁ、すてき!私がコスモス見たいって言ってたの覚えてくれたんだ」と、ニコールは嬉しそうに畑に咲き誇る花々全体を、目を動かしながら眺める。

「うん、いち常連客として君の店に出入りしてた頃に、いつもコスモスの話を聞いてたから」
「そうなのよ。コスモスって宇宙の意味があるのに、日本では『秋桜』って書くじゃない。あれが不思議でどんなものか見たかったの!」テンションが上がったのか、ニコールの声がやや高くなっている。
「でも、日本に来て春に咲く桜は何度も見ているのに、コスモスって映像でしか見たことないなあと思っていたのよね。いつでも行けると思っていたらいつも秋は何かと忙しくて、気が付いたらシーズン過ぎているってばっかだったし。でもいつか見ようと思いつつ、やっと今日見れたのね」

 こうしてふたりはしばらくコスモスを眺める。信二の赤い服やニコールの長いスカートと同じような色をしているコスモス。同じ「桜」でも、春のソメイヨシノの統一された色合いとは全く違う。あたかも、ひとつひとつの花々が個性を競い合っているかのよう。
「十人十色という言葉があるけど、ここのコスモス見ていると十花十色ってとこだな」「そうね。桜は個性がないけど、コスモスには個性があるみたいね。周りに左右されることなく、自分が咲きたいように咲いているみたいな... ...」

 いつしか手をつないでいた。国籍・民族が違うふたりにとって、個性が違うコスモスは、あたかも自分たちのようにも見える。


 暫くの間静かな時間が流れた。


 先に口を開いたのはニコール。「ねえ、さっきの話だけど。4日間愚痴こぼしていた画家の」「ああ、それがどうしたの」
「私苦し紛れにドイツのビール純粋令の話をしたのよ」「純粋令?なにそれ」「ドイツでで1516年に制定された法律」「え!戦国時代からの法律??」
「そうビールは、麦芽・ホップ・水・酵母のみを原料とするという法律が、ドイツでは今でも生きているわ」「それ、オールモルトビールのこと」信二は恐る恐る声に出すとその横で大きくうなづくニコール。

「日本には発泡酒とかあるけど、ビールの一部もドイツでは認められない。それはすぐ隣で、フルーツのビールなどを作っているベルギービールもそうだし、信二が大好きなギネスも、ローストした大麦が入っているから、ビールではなくなってしまうの」
「そんな、それじゃ世界の大多数のビールが、ドイツではビールではなくなるっていうこと!」
「だからこう言ったの『あなたの絵に否定的な人は、ドイツ的な思考の人じゃないかしら』って、するとその人、顔を上げてしばらく考えると、少し納得したみたいだわ。なんかビールに助けられたのかしら。アハッハハ」と声に出して笑った。

「あ、もうひとつ、クレームになった濃いビールはバーレイワインっていうのよ」「ワイン?それじゃドイツ人が」「ていうか、これは一応ワインのように度数が濃いビールという意味のようだけど」
「それ来週もある」「もちろん」「わかった絶対に行くから」と、信二が早早口でしゃべると、小さくうなづくニコール「うん、待ってるわ」

「ああ、コスモスをゆったり眺めて、ニコールからビールのうんちく聞いてたら、急にビール飲みたくなってきた。コスモス眺めながら、さっき買った箱根のビール、ちょっとぐらいならいいかな」と信二がぼんやりつぶやく。するとその瞬間、信二の足元に、ピンクのスカートが伸びてきたかと思うと、直後に強力な衝撃と痛み。ニコールの蹴りが入る。
「それはダメでしょ。ドライバーはアルコール飲んだら絶対ダメ! それは熱海の旅館に車置いてから」と語気を強めるニコールであった。



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