蒙古の酒 第673話・11.26
「先輩、珍しいものが飲めると聞いたのですが?」「中西、そうだ。俺もさ、最近見つけたんだよ。いいぞあそこ」仕事帰りの後藤は、嬉しそうな表情を浮かべながら、後輩の中西を飲みに誘い、会社から電車に乗ること3駅先で下車。ここからお目当ての店を目指した。
ふたりは商社勤め。後藤はまだ日本のオフィスでしか働いたことがないが6つ年上の後藤は海外の駐在経験があった。どちらも酒が好きということもあり、同じ職場になってからは、よく飲みに歩くようになっている。
「おうここだ」「これは!」中西は驚いた。ビル街のはずなのにここだけ大きな空間が開いている。少し広い庭のよう。そして門から中を見ると白くて特徴的な形をしていたテントのようなものがいくつも並んでいた。
「どうだ、モンゴル料理専門店だそうだ」「モンゴル! あ、先輩がかつて」「そう、一昨年までウランバートルの駐在員だったからな。日本に戻って、モンゴルの店がないかと思っていたが、電車に乗ってようやく見つけたんだ」後藤は嬉しそうに門から中に入る。
「この店に行かれたことは」「もちろん、ひとりで行った。それでここは本格的だと思ったから中西を誘ったんだよ」
「このテントのような」「ああ、ゲルのことか。草原地帯に住む遊牧民が利用している住居。ここが個室として飲めるというわけだ」中西は生で初めて見るゲルを興味深く眺めていた。
入口で、スタッフに声をかけると、空いているゲルを案内される。
「ということは、直接床に?」「いや、俺からしたらそれでもよかったが、そこは違う。掘りごたつ式だ」
ふたりはゲルの中に入る。中は最大6人くらい座れるそうな丸いテーブルが真ん中にあり、掘りごたつになっていた。「この周りの雰囲気は相当現地を意識しているな。実際に何度か本場のゲルを見た俺が言うから間違いない」とにかくうれしそうな後藤。中西はテーブルの上に置いているメニューを眺めた。
「お、やっぱりモンゴルのお酒が並んでますね」「おお、さて何呑む?」
「モンゴルのビールから行きましょう」
こうしてふたりはモンゴルのビールを注文した。ビールはこのほかモンゴル国境を接しているロシアのビールと中国のビール。あとは日本の大手メーカーの銘柄の生ビールもある。しかしふたりはそれらは完全にスルーして、モンゴルビールを注文した。
「どうせ飲むだろう、先にこちらも注文しよう」と後藤が指さしたのは馬乳酒(ばにゅうしゅ)。「中西、これが飲める店はなかなかないぞ」「先輩!ぜひ、行きましょう」
「それと、これもだ」と後藤はもうひとつアルヒと呼ばれるモンゴルの蒸留酒・ウォッカを指さした。
「モンゴルだと、馬乳酒の方が有名だが、俺は現地ではいつも、このウォッカを飲んでいた。これも飲むぞ」
こうしてふたりは、酒ばかりを注文した。
「食べ物はどうします?」「うん、まあとでいいだろう」確かにふたりは居酒屋に行ってもあまり食べない。飲み専門ではある。しかし中西は、せっかくの珍しいモンゴル料理が気になって仕方がない。
そんなことを言っているうちにスタッフは酒を運んできた。モンゴルビール2本に馬乳酒とアルヒいずれもボトルに入っている。
「まずはビールで」「カンパーイ!」
こうしてふたりはビールを口に運ぶ。口の中ではずっとこの時を待ち構えていたのか、口の中の唾液が湧き出始める。まだ口の中に入っていないのに、過去の記憶からビールの味や炭酸の刺激、さらに喉に入り込んでそれまでの渇きを一気に癒してくれる感覚が伝わる。
そしてそれは今回も裏切らない。口から入った黄金色の炭酸水は、口の中で程よい炭酸の刺激を与える。ここから冷たい液体は、口の中から沸き起こる体温によって温度が上がる前に、口の中から奥にある喉に向かって流れ込んだ。次に喉を心地よく通って渇きをいやした冷たい炭酸水は、食道から胃袋に落下。さらにこの炭酸水に含まれているアルコール成分が、心地よい余韻を体全体に与えてくれる。
「モンゴルと言えば、僕は横綱とかを思い出します」「ああ、そうだな。最近の横綱ってモンゴルばっかりだからな」後藤はあっという間にビールを飲み終えると、馬乳酒に口をつけた。
「うん、この酸味が懐かしい。そうだ中西知っているか」「はい」「聞けばカルピスはこの馬乳酒からヒントを得て作らせたそうだからな」「へえ、さすが先輩。モンゴルのことは詳しい」「ああ!」と、得意げな後藤はさらに饒舌に語る。「最初は得体のしれないところに飛ばされてどうしようと思ったが、モンゴル駐在の3年間は今となっては良い思い出だ」後藤は感慨にふける。中西は行ったことのない国だからそういう気持ちとは無縁だが、おそらく初めて入ったゲルの雰囲気と目の前のモンゴルのお酒に、新鮮さを感じる。やがて中西も馬乳酒を飲み始めた。
「さて、あとはこれだな」後藤は蒸留酒の方に手を回す。そして何も入れずにストレートで飲む。「うーん、いい。これだよこれ!」後藤のテンションはさらに上がった。
「先輩、チンギスハンとか現地ではやっぱり英雄ですか」「え、ああそりゃそうだ。それでも社会主義の時代にはあまり評判が良くなかったそうだぜ」
「え、そうなんですか?」中西も酒の飲むペースが早い。後藤に負けじとウォッカに手を伸ばした。
「タタールのくびきと言って、ロシアの発展を邪魔したのがチンギスハンということらしく、その当時は嫌われていたらしい」
「後は、元寇ですかね。鎌倉時代の」「うん、モンゴル帝国の元は相当強かったそうだが、日本やベトナムには跳ね返されたそうだな。まあ今の俺たちには、そんなことどうでもいいや」と後藤は次々とボトルの酒を飲んでいった。中西も続く。
こうしてふたりは全部飲み干し、心地よく酔った。「さ、帰ろうか」「はい」と言ってふたりは、席を立ち会計を済ませる。後藤も中西も少し飲みすぎたのか、少し目が座っていた。なぜならばだが結局ふたりは空きっ腹で酒だけを飲み、一切何も食べない。結局モンゴル料理を一切注文しなかったのだ。
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