何を見ている 第748話・2.10
「お前誰だ、さっきから何を見ている?」家の一室でわが物顔で横たわっているる一匹の猫は、見慣れていないニット服を着た若者に眼を飛ばした。
「ずいぶん緊張しているようだが、あいつ主さんの知り合いかな。でもおいらがここに来たときから一度も顔を見たことがないぞ」このとき猫は、ふと、ここに来たことを思い出した。
「生後1年くらいして親元から離れたおいらは、親同様に野良として町中で餌をあさる日々を送っていたもんだ。だがあの日は特に寒く、一日餌が取れなかった。空腹のおいらは公園のベンチの下に逃げ込んださ。そこに行けば、寒い夜風を少しは防げたからな。
そうしたらベンチに主さんが座った。おいらは恐る恐る主さんを見ると、主さんは手に持っていたパンをちぎっておいらの前に置いてくれた。あああ空腹を満たしてくれたパンは旨かったな。おいらが礼を体で示すと『こいつかわいいなあ』なんて主さん言ってた」
猫はこの家の飼い主との出会いは決して忘れることはない。
「気が付けば、主さんの家に居候(いそうろう)になって2年か。しかしさっきから言っているが、お前いったい誰だ?」
その若者は、静かに猫を見ていたが、明らかに緊張気味で顔が硬直している。やがてドアの開く音がすると、主さんが入ってきた。
「あ、おじさん!」「おう、来たな。待っていたぞ」
「ほう主さんの甥っ子というわけか」猫は2年間、毎日人間の社会生活に身を置いたためか、人間の世界のことが少しは理解している。
「お前、昨年大学出たのに、就職に失敗して今ニートになっているそうだな」「うん、受けた会社ことごとくダメで、完全に自信なくしちゃった」甥は小さな声でつぶやく。
「若くて、これからだっていうのに、なんだ、そのか弱い声は。わかった俺の会社に来いよ」
「僕、できるかな」「大丈夫だ。ちゃんと一から教えてやるからさ。これはまだ早いが、お前の頑張りしだいでは、後継者にしようかと思っている。知ってのとおり、俺には子供がいない、猫ならいるがな」
主さんはそう言って猫に視線を置く。「おう、主さんよ。おいらはいつもご機嫌だぜ!」猫は立ち上がると主さんにひと鳴きしてアピール。主さんは笑顔でおいらを撫でる。
「うん、がんばってみるよ。就職に失敗したからおじさんの会社で頑張って大きくできるように」甥は急に元気な声になった。
「よしその意気だ。それだったらまずはな、簿記を覚えて見ろ」「ぼ、ぼき?」甥は声が裏返った。「そうだ、まずお金の流れを把握するのが大事だ。確定申告というの知っているか」
「聞いたことがある。いつも2月から3月まで」「そう、あれで会計の資料を提出すると、その年に納める税金が決まるんだ。俺の会社はまだ小さいからな。俺が会計もやって、申告書も作って提出している。だがそればかりやってられないからな。そろそろ代わりにやってほしい人間を探していた。どうだお前やってみるか」
「かいけい、かくていしんこく、難しいなあ。主さんの世界で出てくる言葉っていうのは」猫はそうつぶやきながら、また寝そべると大あくび。
「わかった、おじさんやってみる」「よし、でもいきなり現場の帳簿を見せても訳がわからんだろう。まずこれを勉強しろ」
主さんは一冊の本を甥に渡した。「これは、日商簿記3級試験の参考書」「そう、まずは簿記のしくみを理解するために試験を受けるんだ。それに合格したら正式にうちの正社員として雇い、会計担当になってもらう」
「勉強?あの、仕事は」「ああ、その間もわずかだが試用期間としてお前に給料をだす。だから明日から出社してこい。わかったな」
「は、はい。」ニットの服を着ている甥は主さんから参考書を受け取ると、立ち上がり部屋を出て行った。
「ふう、これでニート脱出だな。あいつに頑張ってもらわないとな」甥がいなくなり顔の表情が緩んだのか、リラックス気味の声になる主さん。「よし、おいらの出番だな」猫は立ち上がると、座っていた主さんに勢いよく飛び込んだ。
「おお、お前か、横で甥との難しい話聞いていたな。でもわからんだろうな。いいよ、お前はそんなの知らなくても。でも、これだけは言っておく。さっき食べたばかりだろ。餌はまだだからな」と、いって猫の体をやさしくなでる。
「おいらには確かにわからない。でも主さんとこうしていると落ち着くにゃ」と猫はまた一鳴きすると、撫でてくれる主さんの横で目をつぶり、ゆったりとした。
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