夢を語れば見えるかも 第735話・1.28
「さて、今日はあいつ頑張っているかな」西岡信二は、仕事を終え、パートナーのフィリピン人、ニコール・サントスが店長をしているクラフトビールの店に来た。
「いらっしゃい、ああ」ニコールの声。最後の一声について信二は気にも留めず、いつものカウンター席に腰掛けた。「とりあえずいつものね」店なのにすべてが、家庭でのルーチンそのもの。ニコールはいつものごとくギネスのパイントグラスを片手に、黒い液体を注いだ。
店にいるときはリラックスモードの信二。静かにスマホ片手にギネスが出来上がるのを待つ。と、ここまではいつもと同じ。
だが信二は少し気づいていた。主に常連が座るカウンター席に、見慣れぬ客がひとり座っていたことを。
「はいよ」「あ、ありがとう」「でさ」ニコールが困った表情で信二を見た。「もしやあいつ?」信二は見慣れぬカウンター席の客を一瞬見た。クラフトビールを専門に扱う店の性格上、時折面倒な客が来ることがある。大抵は、店長ニコールが適当にあしらうので問題ないが、それでも年に数回、ニコールがお手上げの客がいた。そのときは信二の出番。相手の対応によってはうまく追い払うことすらある。
だがこの日のひとり客はちょっと違った。黙って静かにビールを口に運ぶ。ニコールやら他のスタッフに絡んでうんちくを語ったり、得意げな表情で口説いたりするような客ではないようだ。
「夢と現実は難しいです。わかります」信二がギネスを口に含んでいる間、ニコールはその客に話しかけていた。客はニコールを見ると。「はい、でも夢は語らなければ生涯夢。でも語ればいつか見えるかもしれないと思って」顔をうつむき気味にその男は小さくつぶやく。
「夢か!」信二はわざと男性客に聞こえるように声を出す。すかさずニコールがフォローする。「シンジ、そうなの。このひと、ビールに関する壮大な夢を持っているらしいの。聞いてあげて」
ニコールによりようやく状況をつかめた信二は、男に話しかけた。「夢、いいですね。それはどういう夢ですか?語ってくださいよ」
すると男は、信二の方を見ると目を光らせて、ゆっくりと語りだした。「あ、ありがとう。じゃあ語らせてください」ここで男は、グラスのビールを飲む。「僕はこう見えても実はビール醸造者です」「ビール醸造者って、つまりビールを作っている人?」「はい、作っているというか作っていたという方が正しいでしょう」
「そう、聞いたら○○ビールの人なんですって」ニコールが間に入る。「○○ビール、いい会社じゃないですか、でもそこを......」信二の言葉に小さくうなづく男。「そういうことです、辞めました。だからこうして今は自由の身。でもまた作りたい。○○のような大きなところではなく小さなところで、出資してくれる人を探して、自分の好きな、納得のできるビールを作りたいのです」
信二はギネスをぐぃっと飲んだ。あと4分の1くらいまでの量になった。「なるほど、わかります。わかりますとも」と男に声をかけ。「夢は持ちましょう。今の僕が何かできるわけではありません。でもその心意気。応援します。なにか協力できそうなことあれば言ってください。すぐは無理でも探せばどうにかなります。それで良い出資者が出てきて、起業して自分で納得できるような夢のビールが作れたらいいですね」
「そうです。僕の夢、兄さん、聞いてくれてありがとうござます」男は見た目、確かに信二より若かった。だから思わず「兄さん」と言ってしまったようだ。だが信二はまったく気にせず、にこやかな表情。
「本当にありがとうございます。なんとなく元気が出ました。今日のところはこれで、兄さんまた相談させてください」こうして男は、すがすがしい表情のまま金を払い去って行った。
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「ごめんね。仕事帰りに」男が帰った後、心配そうなニコール。「いやいや、醸造所の人が来て話ができただけでも楽しかったよ。夢は語り続ければ必ず実現する。絶対そうだよ」信二はそういうとパイントに入ったギネスを空にした。
「何飲む?」「あの人の作ったビールとかあるの」「○○はある、じゃあそれね」
何故かニコールもいつも以上に表情が晴れ晴れしい。瓶ビールではあるが○○ビールを注いで飲みながら、自分の夢ももう一度整理しようと思う信二であった。
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