キスの日は楽しいひととき
「あ、久美子さん。お帰りなさい!」出かけていた蒲生久美子は、同棲している交際相手の伊豆萌が待っているマンションに戻ってきた。そして待ち構えたように玄関に来たのは萌。
久美子はドアを閉めて玄関で靴を脱ごうとすると、いきなり萌に抱きつかれる。そしてそのまま顔を合わせてふたりは口づけのキス。
薄いメイクで抑え気味の萌のピンク色の唇と、バッチリメイクの久美子の赤い唇が触れあった。
「まあ、萌ちゃん。ちょっと待ってね。まだ靴も脱いでないし。あとでゆっくりと」久美子は優しく萌の髪をなでながら顔を話した。
「久美子さん居なくて、私ちょっと寂しかった」萌は口を膨らませ、拗ねたような表情。でも目は久美子を見つめながら嬉しそう。
「ごめんね。大学の同窓会が滋賀の草津だったから、泊りになっちゃったわね。その代わり、ちゃんと萌ちゃんのためにお土産買ってきたわよ」
久美子はとりあえずリビングのテーブルにお土産を置くと、着替えのため自室に向かった。
萌は、その間テーブルに置いたお土産のパッケージを開ける。
「え、あ、そうか琵琶湖の淡水魚」
萌は久美子が買ってきた淡水魚のお土産を並べてみた。それは丸のままの鮒ずしのほか、コアユやホンモロコのつくだ煮などである。
しかしそれを見た萌は複雑な表情。「魚かぁ......」
やがて着替えを終え、リラックスした姿になった久美子が、テーブルの前に来た。「どう、琵琶湖沿いにあった道の駅に立ち寄ったの。琵琶湖ってやっぱり大きいわね」
にこやかに語る久美子。だが萌は複雑な表情をしている。
「あれ、どうしたの萌ちゃん。魚嫌いだったかしら?」
萌は首を横に振り「実は今日、久美子さんが『直ぐに帰す』ってメッセージしてくれたでしょ。私、喜んでもらおうと久美子さんが好きそうな魚を買ってきたの」と小声でつぶやく。
「え、あ、それで。そんなの気にしないで。これは佃煮と発酵食品。別に今日食べる必要ないわ。今日は萌ちゃんの買ってきた魚にしましょう。で、何買ってきたの??」
「キス」「え? キスってまた!」「違う、シロギス、久美子さんいつも食べてる魚」
「あ、き、鱚(きす)ね。へえ、もうキスの旬なんだ」
「今日は、魚の扱いが多い『銚子屋』」に行ってきたの」「あ、元魚屋のあそこね。だったら鮮度いいわよ」
久美子はキスの天ぷらが大好き。萌と付き合う前後によく居酒屋にふたりで行ったときには、大抵キスの天ぷらを注文するほど好きなのだ。
久美子はさっそくキッチンに行く。萌は冷蔵庫から買っていたキスを見せる。キスは既に販売時に捌かれていて、開いた状態で売っていた。
「うぁあ。絶対これ美味しい」久美子はキスを見ると本当にうれしそうに眺めている。萌はそんな久美子の表情を見るのがたまらない。
「ちょうど今週からキスが入荷したらしくて、キスの旬についてチラシがあったわ」萌は、そのチラシを久美子に見せる。久美子はそれを受け取ると説明文を読む。
本州から四国・九州に棲息するキスは秋に産卵期。その後の冬場には深場に行き、初夏になると浅瀬に戻ってきます。そのころには産卵のために餌を多く食べるので、良く肥えたキスの姿が現れる。この時期がキスの旬です。
「そうなんだ。知らなかった。普通に塩味が聞いた白身魚と思って食べてただけなのに。うん、じゃあさっそく揚げましょう」
ふたりはおそろいのエプロンをした。ふたりで作る。久美子はてんぷら粉に水を入れてかき混ぜた。萌は鍋に油を入れて火をつけた後、大根をおろし、天ぷら用のつゆをつくる。
やがて油の温度が上がってくることを確認した。「私がやってみるね」久美子はそう言うと、キスをてんぷら粉の液にくぐらせる。店で食べているレベルを意識したのか、久美子は万全を期すために、キスのしっぽも含めて慎重に白い液、つまり衣をつけた。そのままゆっくりと油の入った鍋に投下。
油は白い衣の液体をまとったキスに反応し、即座に激しく泡を出す。そして油の強力な熱が衣とキスに浸透。あっという間に衣は凝固し、黄色に。中の身に火が通る。
萌は揚げ終えたキスを置くための網がついたパッドを用意。魚はそこに置き油が切られる。こうしてひとり3匹ずつのキスが揚げられた。ついでにインゲンやシイタケなどの野菜も揚げていく。
こうして皿に盛りつけられて完成したキスをはじめとした天ぷらの数々。さっそくふたりは並んでリビングのテーブルに座り食べ始める。先に久美子が箸をつけた。大根おろしが混ざった天ぷら用のつゆにつけると、そのまま口の中に含む。瞬間に衣が破壊されたときの音がする。そして歯で噛み砕くときにも音が聞こえた。
「美味しい、お店で食べているのと同じ」「そうですね。ビールとの相性も」萌はキスより先にビールを口に含んでいる。それから食べた。
飲み食いしながらふたりの会話は弾む。最初は久美子の出先での話題であったが、途中から鱚の話題に代わる」
「へえ、鱚ってシロギスだけかと思ったら違うのね」「そう、アオギスというのがいて、それは生息している所がほんの僅かなんだって、お店の人言ってたわ」
「それ食べてみたいわ。貴重なんでしょ」だが萌はゆっくり首を横に振る。「でも、それシロギスよりおいしくないんだって」
「そうなのがっかり」久美子は本当に残念そうな表情。そのままコップのビールを飲み干した。
「そのほかにホシギス、モトギス、アトクギスとかいるらしいの。でもそれは沖縄のほうしかいないみたいね」
「ふうん、だったら萌ちゃん私たちはシロギスだけで我慢ね」久美子は残ったキスの天ぷらを味わいながら食べる。
リビングには大きな液晶のテレビがあり、適当なチャンネルをBGM代わりにつけていた。画面はちょうど伊達巻のCMが流れていたが、突然それが切れて真っ黒画面。「あれ?」慌てる久美子。テレビのスイッチを切ったのは萌だ。
そして「久美子さん、それよりも......」そのまま久美子に最接近。
「まあ、萌ちゃんさっきの続きかしら。そうよねキスはキスでも、私たちはこっちよね」久美子は口を緩めて笑顔になる。
静かにうなづいた萌は、そのまま久美子の顔の前。そして久美子は萌の髪をなでる。そのままふたりは目をつぶり、お互いの口をゆっくりと接触させるのだった。
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シリーズ 日々掌編短編小説 488/1000
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