愛の向こう側にかなしみがあったとしても
愛について語る時。
自分の当たり前が相手の当たり前でなくて驚くことはないだろうか。
普遍的なことばでも......普遍的だからこそかもしれないが、人の数だけイメージや捉え方が違う。
書いたり、考えたりすることは、1人で行うことであり、自分に向き合う作業である。
今日は、少し「愛」について書いてみたい。
あやしもさんの「レモン」という創作小説のスピンオフのお話が急に頭に降りてきたのは、つい先日のお話。
私はこの登場人物の2人が、作中でいいとも悪いともいえない複雑な愛の形を表していることが、作品の中で好ましく思っており、個人的に惹かれる部分でもある。
愛というイメージは世間ではどのようなものなのか。
多幸感あふれるものだろうか。
希望に満ちあふれているのだろうか。
あたたかいぬくもりを感じるだろうか。
確かにそのような側面が主であるのかもしれない。
けれども、私は愛について面と向かって対峙する時に、ある種の覚悟のような思いを抱く。
今は「覚悟」ということばでいいような気もしている。
人を好きになって、関わりを持てることや、相手も私のことを気にかけてくれて、好意を持って頂けることは、とても幸せなことだ。
けれども、そうではない側面もたくさんある。
一つ目はお互い執着してしまうこと。
相手の言動が気になったり、嫉妬のようなものが芽生えたり、期待とそぐわないことが起こると批判めいたものをぶつけてしまう。自分のことを一番に見てくれないと感じた時に、興味をひくために相手やまわりをコントロールし始めたり、攻撃的にふるまってしまうことだってある。
二つ目はまわりが見えなくなること。視野が狭くなること。
好きなもの、対象物に対しての注意力は増すが、まわりへ対しての注意力は低下する。恋は盲目と言ったが、まさにその通りであると思う。好きな相手へのフィルターがかかり、観察眼や判断も鈍くなる。好きだからこそ、他の人であったら許せないことも許してしまったり、自分に負荷をかけてまで、相手のことを優先させてしまったりする。ますます、まわりのことが手につかなくなる。
愛は呪いのようなものだ。
病かもしれない。
とても複雑で多面的である。
そして
一番つらいのは
「かなしみ」だと私は思っている。
どんな対象物でも
いつかは遠くにはなれなければならない。
もうことばを交わせない。
顔を見ることも叶わない。
ぬくもりにふれることもない。
愛情を深く思うほどに、なお別れた後のつらさは増す。
重なっている部分が多かった存在ほど、はなれることで自分自身が損なわれてしまったような感覚に陥る。
出会った時から、別れは始まっている。
けれども、それでも私は出会いたい。
そして出会ったものたちが心に留まっていることを、不意に感じることがある。
「愛しみ」を「かなしみ」と読む。
悲しみとは何かを愛そうとした証しである。
何かと出会って
何かを愛したから
悲しみが訪れる。
複雑な気持ちを抱くことが私には必要な気がしている。
たとえ大きな喪失に着地するとしても
私は愛する人がいる世界で生きていきたい。
そんなことを遠くに行ってしまった人が
私に幸せで悲痛な思いを抱かせたあの人が
教えてくれているような気がしている。