雨露のシバンムシ
さみしさの音が響いた。
長く降り続く、この時期の雨は細く霧雨のように辺りを包みこむ。
グレーと黒のコントラストを描く厚みがかった重たい雲からふり注ぐ雫は
街を
ポストを
人を
傘を
草を
自転車を
道を
お店の看板を
猫を
どこかのやさしい人の体温を
平等に分け隔てなく冷やしていく。
温もりは失われ、熱はしたたる赤い血のみに宿る。誰しもが孤独であることが常であるかのようなこの名もない街で、1週間以上続く雨は止む気配を見せない。
中身が剥き出しのビル。
焦げて炭化した街路樹。
かつて英雄と讃えられていた傾いた銅像。
腕がひきちぎれたうさぎの人形。
欠けてしまった植木鉢と小さな花。
屋根が半壊したボロ屋にその男はいた。
彼は髭を長く蓄え、痩せこけていた。
白髪の隙間から見える瞳は力を失っていた。
あばらは浮き出て、皮が骨にはりついていた。
日中はほぼ寝床を離れることはなかった。
ただその男は毎日
紙を破ることだけは欠かさなかった。
ジャッ
勢いよく紙を破る。
膝に手をつき、ふぅとため息をついたのちに、残された力で全身をふるいたたせ、壁掛けの日めくりのカレンダーを破る。
破られた紙は大きな瓶に入れられた。
瓶はもう少しで紙に埋め尽くされそうであった。
終わりの見えない長い雨が奇跡的に止んだ次の日。
ケラケラと子供の声が聞こえてきた。
男の子は猫と一緒にじゃれて転がった。髪はぼさぼさ、衣服も破れがあるが、その所作は軽やかでいのちに満ち溢れていて、まるでひかりの子のようだった。
彼はお皿に乗せたパンを男のそばの机に置いた。男はパンに見向きもせず、どこか遠くを見つめていた。
男の子は瓶を手に取り、無邪気に頭上にかざした。
きらきらとひかりは屈折した。
ひかりは壊れた屋根の隙間から差し込まれているようだった。
ひかりとひかりはぶつかって、そして紙がひかりを受け止めた。
幾重も重なる紙を通って、ひかりは鈍さをもちながらも、厚底のガラスを抜けて、男の子の網膜に到達した。
男の子はくすくすと笑いながら、くるくると瓶をまわした。暗く電気も届かない、湿り気のあるカビ臭い室内を、きらきらとひかりの粒が照らしていた。
老人の体にもひかりのカケラが振りまかれた。
それは洗礼のような、なんとも言い難い、清らかな空間であった。
男はその晩、夢を見た。
「オマエがコロシタンダ」
「アノコノシアワセヲウバッタンダ」
「ツミヲツグナエ」
首元をしめつけられるような感覚。
影のようなシルエットが2つ。
この手に残った、ぬくもりの赤。
刃物にこびりついた記憶。
かちかちかちかち
耳に残る音。
かちかちかちかち
それは徐々に近づいてきた。
ああ、あれは「シバンムシ」だ。
雨露にぬれてとうとうやってきた。
私はもう長くない。
かちかちかちかち
心残りはない。
あの子は1人でやっていけるだろう。
かちかちかちかち
あの子の両親はあの子を身代わりにして、兵士から逃げようとした。私は許せず咄嗟にお前の両親を手にかけてしまった。
罪を償う日々もあとわずかだ。
紙が積み重なるほどに、あの子は大きく育ち、私は我が子たちが待っている場所へ辿り着くだろう。
かちかちかちかち
かちかちかちかち
心残りはないと言ったが
もうこの手で抱きしめることもかなわないのが
唯一の心残り......
男の子はどこかから拾ってきた立派な壁掛け時計を壁の釘にかけた。
針がかちかちかちと音を立てた。
ぼーんぼーんと刻を告げる音と共に、老人の体はすでに冷たくなっていた。
男の子は老人の手を何度も何度もさすった。
その後、赫いかなしみを弔うように、瓶の紙を老人の体にひらひらとそそいだ。
瓶は空っぽになり
ひかりは屈折せず
まっすぐ男の体を照らした。
紙で包まれた男の顔は
嘆きの境地を経て
まあるい月のように静かで
深い愛を放っていた。