『最新のバージョンにアップデートしてください』
「このアップデートには重要なバグ修正とセキュリティアップデートが含まれ、すべてのユーザーに推奨されます」
「最新のiosにアップデートしてください」
iPhoneの画面から、私はまたアップデートを要求されている。
えええ、めんどくさ!と思いながら、私は夜寝ているうちにそれが終わるように時間設定をした。
このように、私たちは日々、さまざまなアップデートをデバイスから求められている。
最新のバージョンになって使いやすくなった。新しい機能が使えるようになった。効率よく早くシステムが動くようになった。
開発者がユーザーが使いやすいようにと、企業側が弛まぬ努力を経ることで、私たちの持っている情報端末は、日々進化を遂げている。
機械はクリックひとつで最新のバージョンに進化を遂げられるが、人間はどうなんだろうと、ふと運転中にぼんやりと考えてみた。
人間もアップデートしているのか....?
私の仕事で関わらせてもらっている地域の高齢者の方が織りなす生活というのは、とても令和の時代とは思えないような様相を見せることもある。
たとえば、使っているもの。
まだまだ古い和式のトイレや汲み取り式のトイレも見受けられる。
瓦屋根の日本家屋で、縁側がまだ活用されているお家がいくつもある。
自宅内の土間や敷地内の倉が残っていたりもする。
考えだってそうだ。
男は外で稼いでくる、女は家を守るものだったり、親が介護が必要になったら子供たちが面倒を見るのは当たり前だという話を現在進行形で伺う事がある。
旧式で進んでいる世界は、空気も入れ替わらず、水流も見られず、沼のようにただそこにあって、何も変化せずにいるかのように思える。
しかし人間は気づかないうちに日々入れ替わっている。
皮膚は4週間。
血液は4か月。
一番長くて骨は4年で新しい物へ入れ替わる。
なので、4年あれば以前の自分とは変化していることになる。
今日の自分は昨日と同じ自分ではないのだ。
これは考えてみればおもしろいなと思う。
容れ物が変化していても、それでも私が私であること。
「私が実存していること」は果たしてどのように証明できるのだろうか。
これだけ変化している私たちの身体の中で、変化しない部分がある。
それは心筋細胞と神経だ。
私を駆動させているエンジンと
中枢部の司令官。
そこは生涯変わらない。
記憶が自分を認識しているので、私は私であることを疑う事もない。
しかし脳は衰えてしまう。
年齢を重ねると、徐々に認知機能が低下していく。
私は認知症と診断がついている人と接している時に
「この人にとってこの世界はどのように見えているのだろう」
と想像をめぐらすことがある。
日にちがわからない。
どこにいるのかもわからない。
目の前の人が誰かもわからない。
自分が今どのような状況で
何歳なのかもわからない。
何歳ですか?と問うた時に
「36歳です」
と言われる。
この人は86歳だということを、私はカルテを見て知っている。
「これから子供を迎えに行くから」
と施設の外へ出ていこうとしている彼女を見て
『まあ、36歳なら妥当な考えだよな』
と私は思ったりもする。
それがたとえ
「徘徊、たそがれ症候群による不穏」
と記録に記載されるような状態でも。
彼女にとっては大事な出来事であることを、私は前の施設勤めの時によく感じていた。(なので、夕方は特に忙しい介護士さんなどにかわって話を聞けるときは聞いていたりしていた)
記憶が不確かな状態になった時に
私は私であることがゆらいでしまうのではないかと思った。
記憶が保てないので、日々の連続性が絶たれてしまう。
私は何をするべきであったのか。
私は何者であるのか。
ぐらぐらと記憶の地面が揺らいでいる状態で、どのようにバランスを取りながらこの不確かな世界を歩んでいけばいいのか。
私は
笑顔を見せることにしている。
あなたがあなたでありながら
あなたでもなくなって
最終的に
バージョンが最新にアップデートされた状態が
いろいろ忘れてしまうあなただとしても
ここに生きていていいんだと思ってもらえるように
世界はあなたを受け入れて
ここにいていいんだよと
少しでも安心してもらえるように
あなたがあなたをわからなくなってしまっても
私はあなたを見てきて
私があなたを証明させるものでもあるから
私の中にあなたが生きているから
その一つが笑顔であり
やさしい世界がここにはあるのだからというメッセージを
伝えられる一人になりたいなと想いながら
今日も私は仕事で
誰かに笑顔を向けている。
そして私自身がこの世界を去る時にも
お互いに笑顔を向けあえるような世界を
私は望んでいる。
それはどこかあたたかくて
やわらかくて
やさしくて
いとおしくて
生と死を肯定できるような
しずかな時間であることを
私はただ、祈っているのだ。