ノーサンキューの人
「お茶いる?」
本日3度目のお誘い。
「けっこうですよ。ありがとうございます。」
彼女は私が断ったのを忘れているだけだ。
『コロナで飲食禁止なのです』と毎回伝えるが、私のことばはするりと彼女を通り抜けてあの山のはるか彼方までいってしまった。
わたしの頭のなかに「にんちしょう」という文字が浮かび上がる。
よくわかりにくい名前だなーといつも思う。
断る。
断ったことは忘れる。
でも断った時の感情はきっと残る。
断られた方は、きっと少しだけ心のカタチがへこんでしまうのかなとも思う。
あるいはたとえそうではなくとも。
あの人の気持ちだけでも、何とか受け取れないものか。
あの人のあったかい私に向けられたやさしさを、あの山の向こうから「おーい!戻っておいで〜」なんて呼びかけられないのか。
断るごとに何かがわたしにも降り積もる。
ノーサンキュー。
この方のように、心の奥から自然と発せられる存在を肯定してくれるものから…..もしかしたら私利私欲が混在しているやさしくないものまで、世の中から私へ生きてるだけでもいろいろな刺激が入ってくる。
気乗りしない友人の誘い。
レジで渡される使わない割引券。
依存的な相談。
お腹いっぱいの時のデザート。
自分が安心したいだけの心配の名をかぶった確認。
謙遜という名の隠れたマウント合戦。
身の丈に合わない提案。
タイミングの合わないプレゼント。
街頭の暴力的な演説。
正義という名の圧力。
中身のない装飾だらけのルール。
過剰な広告。
テレビ番組の乾いた同調的な笑い。
異性からの自分が満足したいだけの好意。
デリカシーのない訃報。
作られた流行り。
急にみんなといる時だけ話しかけてくる仲良しアピール。
精一杯祈りをこめて戦場へ送られた折り鶴。
ノーサンキューノーサンキュー。
私のシャッターは閉まっている。
断る度に胸に小さな亀裂が入る。
ノーサンキューの雨が降る。
時には大雨注意報が出る。
どこかに避難しなくては…..。
そんな都合の良いシェルターはない。
気持ちだけでも受け取りたい。
その私に向けてくれたやさしさ
あったかさ
善意
慈しみ
あるいは
悪意
妬み
失望
利用したい気持ち
全部全部。
私の事を本当に思いやって渡されるものから
私という個を認識もせずに、手当たり次第にとき放たれて突き刺さる乱暴なものまで
これらの思いはどこに向かう?
いっそ全部受け止めてみようかなと思う。受け止めたらどうなる?
むくむくと欲を吸収するカオナシのように膨れ上がってしまうのか。千と千尋の神隠しのカオナシは最後どうなったんだっけな?
でも私は全てを受け止めない。ノーサンキュー。
今日も今日とてノーサンキューだ。
そして少しだけ祈る。
少しの祈りはファンタジー。
思いはたんぽぽの綿毛のように、ふわふわと舞い上がって
いつの日か、着地を迎えたらいいと思う。
そこはほかほかしていて居心地が良くて、お互いに幸せになるるものだといいなと思う。
そんな私のファンタジー。
現実にはありえないくらいの平和主義者でも時にはいいじゃないか。
へこみが治り、ひびは見えなくなり、山の向こうの気持ちが戻ってきたという妄想くらいは
たまには現実逃避も許してくれよと願いながら
今日もノーサンキューの雨は降る。
そして、
山の向こうに花は根付いて、晴れ渡る青空に虹がかかっていることを
私はただ祈るだけの毎日なのだ。