台北的回憶
6年前の誕生日、私は台北にいた。
大学生になってから初めての海外旅行で、あれこそ私のターニングポイントだったと今でもあの旅が忘れられない。最近、沢木耕太郎の「深夜特急」を怒涛の勢いで読み進めており、私も6年前の夏に体験した台北での日々を改めて振り返りたいと思った。
なぜ台北だったのか、そこには全くこだわりがなかった。6年前、私は大学生4回生であった。自分が選択して第一希望で入った研究室なのに、研究の楽しさが見出せず、学校に行きたくないと強く思うほど苦しい時期で、2度と経験したくない暗黒の時代である。全ては研究室の教授との折り合いが合わないことから始まった。人間関係で荒波を立てることは極力避けてきた私だが、このときばかりは相手に歩み寄るなんてこともできないくらいにメンタルもすり減っていた。
その研究室に所属していたのは自分一人だけであったというのが全ての元凶かもしれない。成果がでず教授には毎日のように叱責・嫌味を言われていたし、コアタイムが朝9時から夜9時という、今考えると鬼畜スケジュールであった。それでもここの教授は以前よりはまるくなったよという励ましを受けたりもしたが、研究室に居たくないという思いは日に日に強くなった。精神状態も最悪で、大学からフェードアウトしなかったのは、我ながら偉いと思う。フェードアウトせずともこの研究室から逃亡できないか…と一縷の望みをかけて、何気なく国際課の掲示板を覗きに行くと、「台湾科技大学 サマーキャンプ」の文字が目に入った。学校が主催の「サマーキャンプ」と呼ばれる「研修」に参加するとなれば、教授に研究をサボって旅行していると言われまいと思い、その募集に応募してみた。私にしては今までにない大きな決断だったと思う。教育実習で長く研究室に行けてなかったことも相まって、結果的にまたサボるのかと嫌味・小言を言われまくったが、研究室から離れられれば、どこの国でも良かった。
参加希望者は後日一室に集められ、集団面接を受けさせられた。「え、面接で振り落とされる可能性があんのか…」と不安がよぎり、質問に必死に答えたが、結果的にそこに集められた人は全員サマーキャンプに参加できた。はれて18日間の自由を手にした私は、日がな旅立ちを首を長くして待った。同じ大学から参加する人は全然違う学科の知らない人ばかりであり、台湾についても全く何も知らなかったけど、そんなことどうでも良いと感じられるほど、この逃亡が心の底から嬉しかった。
同じ大学の参加者と台湾の桃園空港で待ち合わせ、でっかいスーツケースを引きずり転がしながら、台湾科技大学へ向かった。京都の気温よりは低かったが、信じられないほど蒸し蒸ししており、公館駅からの道のりがかなり遠く感じられた。しかし、久々の海外で気分が高揚していたのと、目に入るモノが珍しく感じられ、さほど苦痛とは感じなかった。毎日研究室の教授とのやりとりしかなく、同世代の人たちと関わることさえ稀になっていた時期だったこともあり、また教授からは「お前は社会不適合者だ」と言われてかなりショックを受けていたため、参加者に知り合いがいないことが不安ではなかったとは言い切れないが、自分はその低いコミュニケーション能力の中でも割と何とかやっていける方なのかも?という謎の自信がついていた。
沢木耕太郎氏の「深夜特急」では、異国に到着するとまず宿探しが始まるが、この旅ではその必要はなく、サマーキャンプの参加者は皆この大学の学生寮に宿泊することになっていた。大学に到着すると現地の学生たちが迎えてくれたと同時に雪の結晶柄の寝袋を渡された。国際課の人に聞かされてはいたが、まさか本当に寝袋で18日間過ごすのか…と思った。しかしこの時点ではまあどうにかなるだろうとそこまで気にはしていなかった。
このサマーキャンプには日本の徳島大・琉球大の他にも、韓国、インドネシアからの参加者もおり、それぞれの出身校の人たちがいい感じに配置されるよう、あらかじめグループ分けがされていた。そのグループでひとしきり自己紹介をしたら、その日の活動は終わりということで、早速学生寮に荷物を置き、一息つくことになった。
寮は5人一部屋であった。勉強机付きのベッドで、一段目に机、二段目が寝床という構造になっていた。寮の入り口をくぐったときから嫌な予感はしたのだが、何年も学生が利用していないため、部屋は埃だらけでかなり古かった。洗面所・シャワー室に至っては電気がつかない惨状で、なぜか砂だらけ。初日は仕方なくそのまま使ったが、次の日に同じ部屋の学生たちと掃除をした。聞くとこの寮3万円で1年間借りることができる激安宿だったのだ。沢木耕太郎の旅にも引けを取らない価格だなぁと振り返って思った。砂だらけの水回りよりも想像を絶するほど疲れたのは、最初に渡された雪の結晶柄の寝袋での生活だった。二段目の板の間の寝床にペラッペラの寝袋を引いて寝るのがこんなにも苦痛なのかと思い知らされた。今だったらたぶん18日間もこの状態で旅は続けられない気がするほど、当時は若かったんだなぁと改めて実感した。忌々しいあの雪の結晶柄が今でも脳裏に焼き付いている。
初日はほぼ寝ることができなかった。時差もほぼないはずなのに、2時間おきに目が覚めて、体を起こすと腰に激痛が走る。翌朝起きると寝る前よりも体が疲れてるんじゃないかと思うほど、肩や腰がバキバキで眠かった。その日の授業は起きてる人の方が少ないと思われるほど、皆疲弊していた。初日からアッパーを喰らわされたわけであるが、2、3日この生活が続くと慣れてくるもので、寝袋で寝ていても2時間おきに目が覚めることは無くなった。私にも順応性が備わっていたんだな!と少し驚いたりもした。
こうして苦しい寮生活を同世代の学生とともに体験するうちに、この18日間を頑張って乗り切ろうという結束力みたいなものが生まれてき、同寮の学生たちと仲良くなった。研究室配属以降、同じ大学の同期とも研究室がバラバラになって、関わりが薄くなっていたのに、全く別の大学の知らない学生と仲良くなるなんて、何があるかわからないなぁと思った。
毎朝定刻に起きて、食堂の横にあるパン屋でそれぞれ思い思いのパン(私はとりわけネギパンが好きだった)を購入し、眠気眼を擦りながら、その日のスケジュールを眺め、何するんやろなぁなんて会話をした。寮は同じでもそれぞれ日中活動するグループは異なるため、ずっと行動をともにしてたわけではなく、晩ご飯もそれぞれのグループで現地学生おすすめのお店でとっていたから、1日の活動を終えて寮に帰ってくる時間はまちまちだった。私はその日の活動が終わり解散となると、大学内にあるコンビニに寄って、台湾ビールを購入し寮に戻るのを日課とした。そして砂だらけのシャワー室でシャワーを浴びたあと、台湾ビールを飲みながら、寮の友達のその日の活動について話したり、それぞれの大学について聞いたりした。この時間がこの時期の私には貴重なものであり、必要だったんだなと、年が経つにつれてわかった。研究室という限られたコミュニティで、教授としか関わらない日々を過ごすうちに、研究室外で他の人たちが何をしてるのかなど全く把握できてなかったのだ。視野が狭くなっているということにすら気づくことができておらず、自分が「研究至上主義」という凝り固まった考え方に苛まれていることすら知らなかった。井の中の蛙状態だった私に、普通の(というのが正しいのかは置いといて)大学生活はこんなだよというのを、寮のみんなが教えてくれたのだった。
何年に生まれたのか、大学ではどんなことを研究してるのか、この夏就活でインターンに行ったとか、毎年阿波踊りに参加してるとか、彼氏と海に行ったとか、本当に他愛もない話ばかりだったが、他の大学のみんなは研究以外にも恋愛も就活もバイトも遊びも楽しんでるんだなぁということに気づくことができた。そんな話を聞くと、自分が選んだ環境の劣悪さに腹が立ってきたし、このまま研究だけに大学生活を捧げても良いと思えなかった。毎日教授の嫌味に耐え、12時間のコアタイムを強制されながら、論文を執筆して、IFが高い雑誌に名前を掲載するのがそんなに大切なことなのか?と思うようになった。一度しかない大学生活なのに、自分は心から楽しめてないんじゃないかということに、大海に出てみて知ることができたのだ。これはこの旅での大きな収穫だった。
もちろん私が置かれている状況についても寮の友達に共有したのだが、「それは変やで」ってみんな口を揃えて言った。自分が教授の嫌味を冗談として受け取れない、頭の硬い人間なのかなとずっと悩んでいたのだが、そうではなくその教授がおかしいということに、台北にきて初めて気づいたのである。「帰国したら速攻研究室変え」というアドバイスをみんなからもらい、「そやな、こんな闇から抜け出すには逃げるのもアリかもしれん」と考えるようになった。
昼間は授業で教室に缶詰だったが、その日の活動が終わると外に繰り出し、現地の学生たちに台北を案内してもらった。私が印象に残ってるのはやはり夜市かなと思う。狭い道にいくつもの店が並んでおり、いろんなにおいが立ち込めていた。臭豆腐は食べる勇気が出ず、まだ一度も食べたことがないが、あのにおいと夕立後のジメジメとした感じで、今でも一気にこのときの台北での記憶が甦る。現地の学生たちと、活気あふれる夜市を練り歩いて、台北名物をグループの皆でシェアしながら美食を頬張った。とてもおいしかった。中でも好きだったのは割包。タイワニーズハンバーガー、日本では角煮マンと呼ばれる食べ物。ふわふわの生地が蒸され、蒸籠から取り出される光景が今でも目に浮かぶ。笑。ひとしきり腹を満たし、タピオカミルクティを飲みながら、テキヤやブランドもののパチモンが並ぶ店、カオナシの可愛いTシャツが並ぶ店を眺めながら歩いた。一体この人たちはいつ寝るのかなぁなんて思うほど、夜市はいつまでもキラキラとしていて楽しかった。
滞在期間中数日間はフィールドワークと称して、観光に行ったりもした。中でも九份・十份に観光バスで出かけたのはとても印象に残っている。全くの予備知識無しで台北に来たものだから、この有名な観光地に関しても、「あー千と千尋の神隠しの世界な」くらいしか知らなかった。でもそれでよかったのかもと、「深夜特急」を読んで思った。入念に調べて実際にみたときの新鮮さが失われるより、とりあえず行ってみて行き当たりばったりで旅をしてみるのも良いのかもしれないと。
九份・十份への道のりは長かったが、観光バスに揺られ、外の景色を眺めたり、寮の仲間と話しながら旅は進んだ。観光バスにはカラオケがついており、台湾の歌や日本の歌を歌い合ったりもした。台湾の歌は歌詞の意味がまるでわからなかったが、一緒に流れる映像から恋愛の歌であることが容易にわかった。日本の歌を歌って!とそそのかされ、リスト冊子をみるも、そこにあるのは昭和歌謡曲や演歌ばかり。時代を感じるなぁと思いつつも、横に座っていた寮で一番仲が良かった友達は「ギンギラギンにさりげなく」を曲予約した。サビしか知らなかったから、その子がフルで歌えることに少し驚いたが、みんなも手拍子で盛り上げたりして楽しかった。
日本のサービスエリアみたいなものがなく、バスはずんずん進んで行った。まず着いたのは十份であった。丸々と太った犬たちがあちらこちらで吠えていた。道の真ん中にどーんと線路があり、線路の傍にはランタンを飛ばさないかとキャッチの兄ちゃんがいたり、お土産のお店があったりした。それまで線路はそこにないものとして、線路上でわらわらとランタンに文字を書く人がいたり、飛ばしてる人がいたりしたのだが、急に「線路の外側に出ろ」と身振りで示し始めた。なんでかな?と思った頃に向こう側から何やら鉄道らしきものがみえた。この線路は廃線でも何でもなく、現役で活躍しており、普通に電車が行き交うのであった。電車が傍の店のスレスレ横を通り過ぎると、何事もなかったかのように再び線路上でランタンを飛ばし始める。踏切も警笛もなかったのに大丈夫なんだなぁ、日本じゃあり得ないなぁと思った。
私もキャッチのお兄ちゃんに勧められるがまま、カラフルなランタンに願い事を書いて曇天の空に飛ばすことにした。ランタンは4面あったから、日本のサマーキャンプ参加者4人を集って、それぞれ願い事を書いた。このサマーキャンプで知り合った学生たちが研究だけでなく、学生生活そのものを楽しんでいる様子が本当に羨ましかった。台北で知り合った友達の話を聞くうちに、自分にもそうしたキャンパスライフを送る権利はあるよなと思い始めた。私は切実なる想いを込めてランタンに「大学生活が楽しく過ごせますように」と書いた。
ランタンに願い事を書き終えると、店のお兄ちゃんが線路上で、それぞれの面ごとに記念写真を撮ってくれた。なんと慣れた対応なんだ!と感心していると、ランタンの中の蝋燭に火をつけた。ランタンを離す直前にも何度もシャッターをきってくれ、空に飛んでいく様子に至っては動画を撮ってくれていた。私は曇り空に飛んでいくランタンを小さく見えなくなるまで見上げた。
ランタンを飛ばして今後の安寧を願ったあと、観光バスは九份に向かった。九份はかなり山の上にあることはこのとき初めて知った。ぐねぐねの山道を観光バスはズンズン進んでいくのだが、本当に大丈夫なのかと心配になるくらい運転が強引だった。道には観光客が歩いており、そんなものもお構いなしにズンズンとバスは登って行った。急に視界が広がると降りるように指示され、バスを降りると、さすが人気観光地ともあって人がごった返していた。グループで行動することになったのだが、はぐれずについていくので精一杯だった。赤提灯がぶら下がる小道を歩き、ひしめきあうお店を横目にみながら、上を目指した。全くの予備知識なくこの旅行に来たものだから、ただただ人の多さに圧倒され、現地学生の勧められるがままに、モチモチの氷スイーツを食べたり、魚のすり身ボールを食べたりした。怪しげな雑貨店で、よくわからないカラフルな牛のような動物の置物を唯一自分への土産として買った。なぜこれにしたのかわからないが、今も棚に飾っている。
その後、数日間はサマーキャンプが続いたが、私は日本に帰ってからのことを考えては憂鬱な気分になり、長く続いた寝袋生活から解放されることへの喜びと気持ちがないまぜになっていた。ランタンに書いたように大学生活が楽しくなるものにするには、今いる環境から逃げてもいいのかもしれないと思うようになり、まずは帰国後カウンセリングの先生に話してみようという気になっていた。
帰国までのカウントダウンが始まろうとする頃、ようやく寮の生活にも慣れてきて、寮の仲間だけでなく現地の学生たちとも仲が深まり、だんだんと台北という街にも愛着がわいてきて、別れを思うとツラい気持ちになった。授業が終わりに行った夜市、台北の夜景をみるために登った象山、人生初の花火大会、これまた人生で初めてパンダをみたこと、学生寮で台湾ビールを飲みながらダベったことなど、これまで抑圧されていて自分とはかけ離れてところにあった「青春」を台北で取り戻したかのようだった。
井の中の蛙だった私には、初対面の学生たちとのボロ学生寮での寮生活はとても刺激的だったし、帰国前日のパッキング作業をしているときなんて、「ああ、みんなともう会えないんだなぁ…」とすごくセンチメンタルな気分になった。自分は意外とどんな環境にも適応できるということもこの旅でわかったし、来る前よりもそれなりに気持ちに余裕ができていた。帰国当日は各々で帰る場所が別でフライトが異なるから、寮からだんだんと仲間が去っていく形での別れとなった。次々と部屋に残された人が少なくなっていくのには、本当に寂しくなったけど、ここでの経験は今後一生忘れることがないだろうなと思った。実際に何気なく参加したのに、忘れられない旅になったし、あの過酷で限界寸前だった私が学校主催の研修に参加し、海外に逃亡して研究室から離れるという策を思いついたのは、本当に頭が冴えていたなぁなんて思ったりもする。参加していなければどうなっていたんだろう、学校に行くのをやめていたのだろうかとも思う。
帰国後、私は研究室を変えるという決断をした。カウンセリングの先生にこれまでのハラスメントのことや悩みを打ち明けると、今まで抱えていたモヤモヤがスッとはれた。研究室を変えますか?と言われて、移った先でまた人間関係が拗れないだろうかとか、卒業研究も遅れをとることになるけど大丈夫だろうかとか、不安は尽きなかったが、思い切って「変えます」と返事をした。それはこの台北でのサマーキャンプがかなり後押しになった。今いる研究室から逃げて、環境が変わっても何とかやっていけるだろうと自信がついていたからだと思う。親からはせっかく配属後からこれまで頑張ってきたのに、逃げたらもったいないと言われたりもしたが、別に逃げることに何も罪悪感がなかったし、さっさと変えて気分一転、研究だけじゃなくその他のことも楽しんでやろうという気になっていた。結果的に研究室を変えたことで、私の大学生活は好転した。放課後に映画をみに行く余裕ができたり、バイトも再開したり、研究室のメンバーにも後入りなのによくしてもらった。十份でランタンに書いた願い事は叶うんだなぁと思った。
私は祖母から「知識と経験は誰にも盗まれないから、勉強は頑張って、やりたいことは挑戦しておきや」と幼い頃から言われてきたのだが、最近それはその通りだなぁとすごく納得する。台北でのサマーキャンプは誰にも盗まれない私だけの経験となり、今でも忘れられない貴重な18日間となった。何を思ってあのとき国際課の掲示板をみにいったのか、台北でのサマーキャンプのポスターをみつけたのか、応募してみてもいいかなと思ったのかは定かではないけれども、良い方向へと自分を誘うための導きだったのかもしれないな〜と思ったりもする。あのような18日間は今後体験することができるのだろうか。
今年の誕生日で29歳になった。6年前の誕生日は台北で過ごすという、いつもと違うさまだったから、この時期になると毎年台北でのサマーキャンプを思い出す。他人からみれば研究室を変えるという小さな決断かもしれないけど、私にとっては当時最大の悩みのタネだったため、大きな一歩だった。人生を良い方向へと進めることができるきっかけとなる旅になってよかったな、と毎年カメラロールをみながらノスタルジックな気分になる。