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この世とあの世を行き来する期間

私の44歳の誕生日の3日後に
祖母は、天国へ旅立ちました。


祖母は、
私が結婚して間もなく
認知症の症状が出始めました。

曾孫にあたる
私の息子が
産まれた頃は、
まだ記憶もそれなりに
しっかりしていたのですが、
息子が物心ついた頃には
だいぶ忘れっぽくなり
何度も同じことを
尋ねてくるように
なりました。

息子を連れて
遊びに行った時も…

祖母「何歳になったの?」
息子「5歳だよ」
祖母「そんなになったの!」

こんなやりとりが、
何度も繰り返されました。

最初は、
「さっき教えたよ」
と不思議がっていた
息子でしたが、
病気のせいで
忘れっぽくなったことや
同じことを聞かれたら
また答えればいいことを
話すと
面倒臭がらずに
答えていました。

この頃から
病院での会計、
ちょっとした買い物などで
お金の支払いを忘れたり 
あるだけ全て使ってしまったり
ということが増えてきました。
そのため、
お金の管理も
全て母がするようになりました。

息子が
小学校に上がると
年を尋ねる度に
「もう小学生になったんだね!」
と驚き、その度に
「入学のお祝いがまだだったね」
と気にするようになりました。

そして、ある日、
どこからかき集めてきたのか
10円玉や5円玉を手に握りしめ
「これしかないけれど、お祝いだよ」
と息子に渡しました。

息子が
「ありがとう」
と受け取ると
とても嬉しそうにしていました。

病気のため、
突然気性が荒くなった時期も
ありました。
その時は
鬼のような形相で
母を罵り、暴言を吐きました。

母と祖母の間には
長年の間に
積み重なった
わだかまりがあり
母にとって、
愛情を持って介護する 
ということは
あまりにも、
厳しく難しい課題でした。

それでも
出来ることは
精一杯やっていましたし、
介護を放棄するということは
決してありませんでした。

ただ、 
祖母の介護が始まってから
母はいつも機嫌が悪く
疲れていました。

祖母は、
亡くなる半年程前から
完全に寝たきりになりました。
その頃は認知もかなり進み、
久しぶりに会いに来た
我が子(叔父)のことを、
すっかり
忘れてしまっていました。

それでも、
近くに住んでいて
頻繁に顔を見せていた
私や息子のことは
いつまでもおぼえていて
「誰だか、分かる?」
と尋ねると
「分かるよ。なおみさん」
と名前を呼んで
答えてくれました。

さらに認知が進むと、
母を罵ったり暴言を
吐くことはなくなり
代わりに
感謝の言葉を、
口にするようになりました。

「お母さん(母のこと)が
いないと、だめだ…」
「本当にいいお母さんだ…」

私「お母さんがいて、幸せだね」
祖母「本当だ、幸せだ」

そんな私たちの会話を
母は、半分呆れながらも
嬉しそうに、
聞いていました。

亡くなる1月程前に
一度体調を崩し
入院しました。

病院にお見舞いに行くと
思いの外元気で
安心しました。

祖母の話すことは
事実とは違うこと
ばかりでしたが、
知らない人が聞いたら
しっかりとした会話に
聞こえていたかもしれません。

色んな思い出が
混ざり合った
めちゃくちゃな話。

不思議と私は
この絵空事のような話を
何時間でも
聞いていられるような
気がしました。

元気な頃の
祖母の話と言えば
自慢話か家族の愚痴ばかりで
いつも
自分のエネルギーが
奪われていくようでした。

でも、
いつからか
自慢話や愚痴がなくなり
楽しく会話が
進むようになりました。
笑いが絶えず
気が付けば
ずいぶん話し込んで
いたりもしました。

この日も
楽しい会話が続きました。

と突然、
天井を見つめながら
祖母が言いました。

「誰だべ、
さっきから
知らない男の人が2人
あそこにいるんだけど。
帽子かぶって…」

天井の方を見ながら
祖母が不思議そうに
首をかしげました。

祖母の目線の先には
天井があるだけで、
もちろん
誰もいません。

「誰か見えるの?
おじいさんじゃない?
○○さん」

亡くなった祖父の名前を
言ってみましたが、

「そんな人知らないな」
祖母は祖父のことも
忘れてしまったようでした。

「やだ、おばあさん、まさか、
お迎えが来たんじゃないでしょうね。
まだまだ早いからね」

私が冗談を言うと、
なおも、
不思議そうに
天井を見つめていました。

記憶がごちゃまぜになって
変なことを言うのには
慣れていましたが、
こんな風に
私たちの見えないものを
見えると話すのは
初めてでした。

この時
祖母の目には
確かに誰かの姿がはっきり
見えていたようでした。

これも、病気のせい?
と思いながらも
私は、心のどこかで、
祖母との別れが近いことを
感じていました。

数日後
母から
祖母が元気になり
退院したとの連絡があり
実家へ会いに行きました。

一目見て驚きました。
病院で見た時の祖母とは
明らかに別人でした。

母は、
「気のせいよ。元気よ。
日によって波があるのよ」
と言っていましたが、
あの日のような
生き生きとした
表情はなく、
ただ、穏やかに笑うだけで
会話も弾みませんでした。

次に会った時は、
さらにそれを感じました。

それでも、
母は、
「昨日も元気だったよ」
と言いました。

でも…。
明らかに…違う。


その頃、
床擦れが悪化していたため、
週に何度か訪問看護を
お願いしていました。

土曜日は
訪問看護が休みのため
私が手伝いに行くことに
していました。


手伝いに行く数日前のこと。
私は、あるお店で企画した
お茶会に参加しました。

6、7人でのお茶会で、
皆初めて会う人ばかりでした。

主催者の方が
そのうちの一人の方を
私と趣味が合いそうだと言って
紹介してくれました。

自分が変わる
きっかけが欲しかった私は、
この出会いを大切にしたいと
思いました。

ちょうど、その方が、
今度の土曜日に
お茶会を開くとのことで、
誘いを受けました。

介護の手伝いは
母に話して休めばいい。
そう思いました。

「いかがですか?」

その方が
私をじっと見つめました。

はっとして、
思わず
目をそらしてしまいました。

その方の目は、
まるで、
絶対に来てはいけない
と警告しているような
そんな恐怖を感じる
恐ろしい目だったのです。

嫌われている…
咄嗟にそう思った私は
「あっ、その日は
祖母の介護があって…」
とすぐに断りました。

この人とは縁がない…

直感…
ただの思い込みだったのかも
しれませんが、
とにかく、
どうしても行く気に
なれなかったのです。

そして、
土曜日、いつものように
実家へ行きました。

祖母は、さらに
弱っていました。

何か言いたそうに
していましたが、
言葉にならず
あうあうと
口を動かしていました。

母と2人がかりで
床擦れの洗浄や治療をしました。

祖母が泣いて痛がるので
私は祖母の手を握り
顔を見つめ
祖母の知っている
動揺を歌いました。

「ぽっぽっぽっ、鳩ぽっぽ♪」

私が歌い始めると
すぐに痛みのことは
忘れてしまったようで、
泣くのをやめ、
まるで子どものような
無垢な瞳で
私の顔をじっと見つめ
うんうんとうなずきながら
嬉しそうに聞いていました。

生まれたままの魂
そんな風に見えました。

「あのね、私ね、
昨日44歳になったの」

そう言うと、祖母は、
「44、44、44…」と
お経のように
私の年齢を唱え始めました。

「それ、私の年よ。
おばあさんの歳じゃないからね」 
私がそう言っても、
祖母は、おかまいなしで
ずっとずっと
44、44を繰り返していました。

その後
スプーンで、
流動食を食べさました。

母は、いつも時間が
かかって大変なのよと
言いましたが、
私があげると
よく食べてくれました。

食べた後、
歯を磨いてあげました。

その後間もなく、
祖母は眠りました。

「また、来るね」

お昼の一通りの介護を終え
その日は、実家を後にしました。

その2日後、
母から電話がきました。
祖母が食事を取らなくなったので
これから先生に来て
診てもらうとのことでした。

夕方、また連絡があり
点滴をしてもらったから
大丈夫と
教えてくれました。

「今は落ち着いて眠ってる」
母はそう言いましたが、
私は、胸騒ぎがしました。

今すぐ会いに行かなければ

そう思いました。

ちょうど
夕ご飯の準備の途中でした。

「夕ご飯の支度が終わったら
すぐに行く」

そう言いながら、
私は泣いていました。

「なに泣いてるの。大丈夫よ。
先生に診てもらったって
報告したかっただけよ」

母は、突然私が泣くので
驚いて、少しだけ笑いました。

でも、とにかく急がなくちゃ。
そう思いました。

大急ぎで、夕飯の支度を済ませ、
主人にメールをして、
息子と実家へ向かいました。

そっと、
祖母の部屋の戸を
開けました。

ベットに寝ている
祖母の顔を見て
私は
あっと思いました。

おばあさん…

涙がこぼれました。

これは寝顔ではないと
すぐに分かりました。

そんなはずはない、
さっき、先生に診てもらった
ばかりだよ…
家族は驚いて寝室に来ました。

家族がすぐに先生を呼びました。

先生は祖母の体を診ました。

祖母は…
亡くなっていました…

夕ご飯の支度なんか
そのままにして
すぐに来ればよかった…

そうすれば、
一人寂しく
逝くこともなかったのに…

何であの時すぐに…

涙が止まりませんでした。

でも、そんな私を見て
先生が言いました。

「自宅で死ぬことが
ほとんど難しい時代です。
こうやって、
自宅の天井を見ながら
逝くことが出来て
本当に幸せだったと思います」

先生が言うほど
祖母にとっても
家族にとっても
この数年間の介護生活は
決して幸せだったと、
きれいごとで
片づけられるようなものでは
ありませんでした。

それでも、
先生の言葉に
家族は
きっと、
救われたに違いありません。

結局、
私が最後に
祖母と言葉を交わしたのは
私の44歳の誕生日の翌日、
あのお茶会に誘われた
土曜日でした。

お茶会に行かなくて
良かった…
心からそう思いました。

あの人の顔が、
あの目が、
行くことを止めたのです。

お茶会に来てはいけないと。



祖母の1周期の時
母がこんなことを
言いました。

「今年は
おばあさんの1周期だから
なおみは45歳だね。
もう、忘れないわ」

母は、ここ数年
娘である私の年齢を
憶えられなかったのだそう。

けれど、
亡くなる2日前
祖母が『44』と
唱え続けてくれたおかげで、
祖母の亡くなった年と、
私の年齢が計算式のように
つながって
すっかり
憶えてしまったのだとか。


それにしても、
あの日、
祖母が病院で見た
2人の男の人は
誰だったのでしょう。

祖母は、
もう、あの頃から
あちらに逝く準備を
始めていたのでしょうか。

死ぬ間際の人が
まるで自分の死が近いことを
悟っているかのように
家族に別れを告げるという、
話をよく聞きますが
祖母の場合、
病気もあって
本人の言動から
はっきりとそれを感じることは
出来ませんでした。

ただ
あの男の人たちが
見えた頃から
祖母は、あちらとこちらを
行き来し始めていたのでは
そんなことを
思ったりもしました。


何かを言いたげに
あうあうと口を
動かしていた祖母。

私の顔を
真っ直ぐに見つめていた祖母。

あの瞳は
私に伝えていたのだろうか…。

『ありがとう』や 
『さようなら』を…

あの人の目が、
あんなに恐かったのは…

私がお茶会に行くことを
止めさせたのは…

祖母だったのだろうか…。

祖母が
最後のお別れを言うために
私を呼んだのだろうか…

ふとそんなことを
思いました。



私は、
これからもきっと
思い出すことでしょう。

誕生日がくる度に。

祖母と過ごした
最後の日々のことを。


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