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紙の動物園:衣食住本

東藤さんへ

本文を読むことなく、表紙と紹介文だけで「本」を語ることに戸惑っています。おそらく、これは正解主義が無意識的に僕の心身を支配しているからではないだろうか、そんな無関係なことを表紙を眺めながら考えていました。

「香港で母さんと出会った父さんは、母さんをアメリカに連れ帰った。泣き虫だったぼくに母さんが包装紙で作ってくれた折り紙の虎や水牛は、みな命を吹きこまれて生き生きと動きだした。魔法のような母さんの折り紙だけがずっとぼくの友達だった……。」

上記の書籍紹介(amazonより)を読む限りのいて、主人公の「ぼく」の生い立ちは複雑で、しかしながら、いまや多文化、他国のひと同士が結ばれ、子どもを授かることは珍しいものではない。

しかし、その一方で、子どもにとって生活する国や文化が変わるというのは、地殻変動が起こるほどの衝撃でしょうし、アメリカでの生活に戸惑い、孤立した「ぼく」を描いているのではないでしょうか。

読んでないので想像でしかありませんけど・・・

そのとき、「ぼく」の母親が包装紙で動物を折らせました。小中学校で海外で暮らすことになった日本人の子どもに、クラスで折り紙をさせることで、みんなの仲間になっていきやすいようにする。それに近い、つまり、言葉でなく、何かの表現を持ってコミュニケーションのきっかけを作る。

大人の世界でも近いことは起こると思いますけど、子どもたちであれば、なおさら「すごい!」は、その距離を近づけるものだと思います。

包装紙で動物を作るだけであれば、ただの折り紙かもしれません。ただ、孤独と暮らす「ぼく」にとって、一つひとつの動物、いや、一体一体の動物にはよき思い出を込めていく。その想いが動物に命を吹き込んでいく。

生き生きと動き出す包装紙の動物たちは、アメリカ生活における「ぼく」が心を許せる友達であり、安全で安心できる空間を提供してくれるのだと思います。

僕も自分の子どもたちを見ているなかで、本人がとても大切にしている「ぬいぐるみ」や「ロボット」が、まさに友達であるかのように彼らの傍らで話し相手となり、ときに喧嘩し、ときに癒しとなっている姿を見ます。

何か、ひとにとってつらいことがあったとき、その癒しは必ずしも「ひと」だけではなく、自らが友達であると認識した「ひと」的な何かでもいいのでしょう。

ひとが心を開いていくプロセスには時間がかかりますが、閉ざされた扉が開いていくことで、周囲のひとが、その扉に気が付き、「ひと」的な何かだけでなく、「ひと」との接点、交流が育まれていくのだと思います。

東藤さんはとてもやさしいひとなので、この『紙の動物園』という書籍にも命を吹き込まれているのだと思います。そんな東藤さんの「友達」を僕に紹介してくれたこと、なんとなく東藤さんの友達の一員に入れてもらえた。

そんな大切な一冊をありがとうございます。

僕から東藤さんに「羊の宇宙」を推薦します。


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