フルーツボーイ中村は哲学実践家
はじめに
さて、わたくしのプロフィールです。
フルーツボーイという名前があるので
「果物詳しい人」という風に見えるかもですが、そうではありません。
別の記事で、果物をハチャメチャな売り方で売ってきた、という内容を書いているので、果物屋であることは確かなのですが、
一般的な果物屋とは少し毛色が違うので、この記事を通して私のことをざっくりと紹介できればと思います。
「ハチャメチャに売ってきた」の部分もこれで理解できるかもしれません。
自称「哲学実践家」
一言でいうと、私は
哲学実践家
です。
はて?
そんな名前あるかどうかわからないのですが、自分の人生を振り返った時、これがピッタリ当てはまったので勝手に名付けました。
完全に自称です。そしてちょっとカッコつけてます。
すこし説明させてください。
現在35歳(2023年)の私ですが、今が人生の給水ポイントだと思い、これまで突っ走ってきた35年間を振り返ってみました。
本当に周りを見ずに突っ走ってきました。
そこで見えてきたのが、大学時代に没頭した学問「哲学」が、今の自分の人生にとてつもなく大きな影響を与えていた、ということでした。
みなさんは、哲学と聞いてどんなをイメージもちますかね?
「人間とは何か?」「自由とは何か?」「神は存在するのか?」など、永遠に答えが出ない問いを探求するイメージですかね、、、
小難しいイメージを持っているかもしれませんが、
私はそれが大好きでした。
中学時代のいじめがきっかけ
中学校時代のいじめをきっかけに、死後の世界のこと、人間はなぜ生まれ、何のために生きているのか?などに興味を持ち始めたのが哲学への第一歩でした。
私は子どものころから体が小さくそれがコンプレックスでした。両親も体が小さいので、買い物や外食に出かけるときは、「小さい家族」を馬鹿にされると思い、家族と一緒にいるところをできるだけ友達に見られたくないと思って距離を取って行動してました。
学校では、内履きに画びょうを入れられたり、プロレスごっこの標的にされたり、漫画のような仕打ちを受けてきました。
今では笑い話なのですが、当時は「自分はなんて不幸な環境に生まれてしまったんだ」と嘆いていました。
でも平気な顔でしてやり過ごし、家では何もなかったように振舞っていました。心の底では辛く、悲しく、誰にも言えない毎日を過ごしていました。
そして何となく大学の教育学部に入りました。
そこで出会ったのが哲学でした。その大学は教育学部には珍しい哲学を学べる研究室がありました。どうして人間はこんな苦しい思いをしてまで、生きなきゃいけないんだろう?と思ってた私は生きる希望が欲しくてその研究室に入りました。
先生と面談し、あなたにはこれが合っていると紹介されたのがオランダのスピノザという哲学者でした。この哲学者は哲学者の中でも難解な文章を書くらしく、国語力の乏しい私にとっては彼を理解することは非常に骨が折れました。
書かれている単語の意味が分からないので、言葉の意味を調べて、文章に戻って、を繰り返しました。わずか3行の文章を理解するのに2時間かかったこともあります。
それでも私は生きる希望を掴みたくて、必死で読み進めました。
おかげで、人生の指針となる宝物を手に入れました。
それが私が自分で書き上げた論文
「スピノザの最高善を求めて」
でした。
小さな達成ですが、ここまで没頭してやり遂げたことは、それまでの人生ではなかったので、自身で作り上げたこの「教材」を絶対に無駄にしないぞ。と心に決めました。
だからこそ、社会人になっても自分の哲学を貫くこと、苦しいときはここに戻ってこれば大丈夫と思いました。
そして35歳になった今、どんな選択をするにしても、この哲学がとても重要な判断材料としてとても活躍してきたなと思うのです。
学校の先生をやめ、今の果物屋さんになった時もそう。
「なぜ学校の先生をやりたいのか?」
「何のために生きているのか?」
このような質問に自問自答し、行き詰まった先の解決策はいつも自分のバイブル、「スピノザの最高善を求めて」に助けられるのです。
自分の哲学を押し通す代償
しかし
この哲学を押し通し過ぎると、周りから不思議がられることもしばしばあります。
なぜなら、結局哲学とは、自分の中の正解なのであって、他人にとっては何がなんだかさっぱり??それをやって何の意味があるの??って思われちゃうのです。
実際、私が哲学をするあまり、失っていること、支払っている代償はたくさんあります。ちょっと挙げてみます。
①時間がかかる
→哲学するとは、言い換えると、上記のような難しい問いを探求し続けることです。答えが出るかわからない問題なのでかなり時間がかかります。過去の有名な哲学者でも、答えが出ないまま亡くなってしまった人はたくさんいます。
②仕事との両立が大変
→これは、私の場合に限るかもしれませんが、哲学で食っていこうとすると、大学の教授になったり、本を出したりすることが定石です。研究者として給料(研究費)をもらいながら、活動を続ける人もいるみたいです。私の場合、このような正規ルートではないので、哲学とは別に仕事をしなければなりません。哲学=本業ではない人にとって仕事との両立はとても難しいと思います。ただ、ここは哲学に対する本気度によると思います。
③お金に変わりにくい
よく哲学はビジネスとして向いていないといわれます。「自由とは何か?」「人間とは何か?」の答えがが分かったとして、それがお金に変わりにくいいからです。なぜなら、答えが出たところで、人々の暮らしが目に見えて豊かになるかといえば、そうではないからです。世の中が求めていれば、それにお金を払おうとする人が出てくるのでしょうが、現状そうではありません。そもそも市場のニーズが少なくマーケットとして成り立ちにくいのです。
④周りからの理解を得にくい
これは①~③の結果こうなるよ、といった方がいいかもしれません。時間がかかる割にお金にならない。それなのに、それをやり続ける。これは一般の人からしたら理解しにくいかもしれません。私の本業は果物屋です。実は、仕入れ先も顧客も確立しているので、ぶっちゃけ果物屋として、効率よく果物を売ればいいわけです。でも、それをやりながらも、頑固に哲学をやり続けるのです。実際に私は、身内(妻、親)からはそろそろやめた方がいいのでは?と言われたりしています。特にその月の収入が低かったりすると、その声は大きくなります。
こんなにも大変なことをどうしてやるの?
こんなにデメリットがあるならやめた方がいいよね?
ここまで読んでいただいたみなさんはきっと疑問に思うと思います。
しかし実は、かなり勝算があって私はこの選択をしています。
デメリットばかりで未来がなさそうに聞こえますが、実は私の頭の中はメリットの方が強く、ワクワクが止まらないのです。
それについては以下の記事に書いてありますので、そちらをご覧ください
https://note.com/kudamonoboy/n/ne1a7333e7f86
それではまた!