なぜ「俺ばかりの世界」には限界が来るか?
ある日から、世界に「俺」が増殖していく。
この出オチ感すらある設定ひとつで、最後まで面白いのが小説『俺俺』だ。現代社会の同調圧力、アイデンティティの問題をギャグをふんだんにおり混ぜて皮肉っているのが痛快。
最近、『原体験ドリブン』の作者であるチカイケ秀夫さんを取材したから、なおさら興味深かった。
チカイケさんは、「日本の同調圧力をぶっ壊す!」を掲げてクラファンを実施したこともあるのだ。テーマが似ている。
というわけで、『俺俺』を振り返りながら
考えたことをつらつら書いていく。
※完全なるネタバレになるから、新鮮な気持ちで読みたい人は注意。
なぜ「俺ばかりの世界」は血みどろになるか?
人を苛立たせるのが得意で、日々の生活に不満たらたら、平凡な人生を送る青年が、なりゆきでオレオレ詐欺をしたことから話は始まる。
見知らぬおばさんが俺を息子とみなし、母だったはずの人には他人扱いされるが、気づけば、なんだか自分が間違っていたような気がする。始めから、俺はそのおばさんの息子だったのだ。
流されるように生き、思想を持たず、定まらない自我である「俺」はかんたんに塗り変わり、増殖していく。
中心のない、イワシの群れのような存在。
はじめのうち、社会から阻害されている気がしている俺は、他の俺がいることを好ましく思う。
究極的に同質性の高い他の「俺ら」は、一緒にいて居心地がいいのだ。
なんといったって、俺の顔をした他人は、他人の気がしない。
同情や共感もひとしおだ。
しかし、数人だった俺は、やがて
この世のすべてを埋め尽くすようになっていく。
会社の嫌なやつも、生活保護の申請を受けに行列をなす人たちも、犯罪者も、子どもも大人も、女も男も、みんな俺の顔。
自分の知らない「俺」が増殖し、俺はだんだん気持ち悪くなってくる。異質なものがない世界で、特異な行動は許されない。
差異の消えた世界で、やがて「俺」同士は殺し合いを始める。俺が俺を殺す虚しさったらない。
殺し合いの果てに、主人公は気がつく。
俺俺の世界はなぜ終わったのか?
「俺俺の世界」はなぜ終わったのか?
これを紐解いていきたい。
終盤、社会機能が麻痺し、なんとか生き残っている飢えた別の俺が俺を喰らうシーンがある。喰われながら、俺は思う。
承認欲求の話に見えるが、たぶん若干違う。俺は、俺に必要とされる必要があったのだ。役割や思想でなく、肉として、つまりただの存在として認められている感覚。
俺は、ようやく俺を信用する。
目の前の状況への反射的な迎合を積み重ねて生き、少し前のこともすっかり忘れてしまう。そんな、楽だが自分を失ってしまう生き方を、キッパリやめると決めた瞬間の感覚が、孤独に立ち向かう力をくれた。
この感覚を得た俺は、この殺伐とした世界の終わりを感じ取る。俺はもう俺のしたことを「忘れた」だの「あの状況ならみんなそうする」だの言うのをやめるのだ。
それは、清々しいと同時に、とても寂しいことだ。発狂しそうにもなる。もう誰かを自分のようにわかることはないのだ。
俺の顔したクソ野郎は、何を突きつけるか?
はじめ、世界に対して関心がなく、人の話もろくに聞いていない主人公は、別の俺が現れたとき、今まででは考えられなかったレベルの共感力を見せる。
目の前のこいつの人生が俺の人生だったのかもしれないんだよな。そんな視点が生じることで可能になった想像だと思う。
ただし、ここで生じている共感は、顔という表面が自分と似ているからこそ生じているものだ。なんの努力も要さず、安易で、入り込んで心地が良いからそうしているだけの共感。
相手を理解しようとしているようでいて、本質的には自分を慰めているに過ぎないインスタントな想像。
これが中盤になって、受け入れ難い他者も、なんの関わりもないどうでもいいような他者も俺の顔になってくると、激しい苦痛になる。
俺を慰められなくなるからだ。
俺であり得たかもしれない、無数の受け入れ難い人生は、そのまなざしによって、俺の中にある汚い感情やあさましい思惑の存在を突きつけてくる。
俺が忘れようとして、無視してきたことだ。
否認、決めつけ、無気力、強がりのフィルターをかけ、もっともらしい理由をつけて無視してきた現実だ。当事者にとっては、これこそ現実の顔をしているのが困りものだけど。
君が俺だったら?
俺であり得たかもしれない存在として、他者を見る。
相手を深く知ろうとする力を湧かせるために、有効な想定だと思う。ライターとして記事を書くとき、僕もいつも使う。
だけど、他者はやっぱり他者だ。自分がその立場にいたらどう思うかと考えるのは、時に押し付けがましい。
相手が実際に思っていることとは違うのが普通だ。
かといって、「それってあなたの感想ですよね。僕は違うんで」なんて言われると、腹が立つ。
俺と他の誰かは、違っている。それでも対話し、理解しようとすることを諦めない。そこに僕は価値を感じる。
最初は受け入れるつもりのなかった他者の意見を、何度も触れて、深掘りして、味わって、自分が揺るがされる経験をしたい。
そういえば、異質な二人がぶつかりながらも対話を重ね、葛藤しつつ、互いに変化していく様子を見たいがために、小説や映画を見る節がある。
僕は、書き手の先輩から、「自分の信念をなぞるだけの観察や取材はつまらない」と教わった。「俺の世界」に閉じこもるなってことだろう。
あり得たかもしれない俺をたっぷり見て、誤りは認め、いらないものを削ぎ落として「すまない。でも私はこれを信じる」と言えるものを見つけるのが芯を持った生き方なんじゃないか。
俺俺の世界はなぜ地獄か?
全員が俺の世界は、地獄だ。
けど、主人公が感じているように、少数の俺で戯れている間はしばらく天国のように感じられるだろう。
自分の今もっている世界観に留まっていられる。
実際、僕らはまったくの他人とは思えないような、気心の知れた友人たちといるとこの上なく癒される。それはまさに、自分がなくなって、溶け合うような感じといえる。
ただし、そこにずっと居続けることに、僕らは耐えられない。
同じ世界観の中に居続けると、自分の中の満たされない何かが、どこかの時点で爆発しそうになるのだ。それは頭(脳)の問題というより、肉(身体)の問題な気がする。
平野啓一郎さんの分人の考え方とも似ているかもしれない。
大体の場合、あるコミュニティで出せる自分のバリエーションには限界があって、多様な「俺」の側面を出せる場が必要なのだ。出せない自分をずっと押し込めておくと、精神に不調を来す。
僕らは必ず、異質な他者を求める。
そして、新しい何かが生まれてくるのは、異質な他者と交わったときであることが多い。
異質な他者と交わると、最初はよくわからない。
でも、「彼が俺であり得たかもしれない」と思える瞬間があって、より深く知ろうと迫るうち、「俺の見方は間違っていたのかもしれない」という揺さぶりを受ける。揺さぶりによって、要らぬものが削ぎ落とされ、洗練され、それでも譲れないものが見える。軸がしっかりする。
叩いて不純物を取り除く、鉄の精錬と似ているかもしれない。
『原体験ドリブン』と『俺俺』
『原体験ドリブン』で、チカイケさんは、人の動機を4段階のションで分けていた。
『俺俺』でいうと、喰われるまでの俺は、ファッションかテンションだけで生きている。自分のことを、信じても疑ってもいない。そもそも自分がいない。俺は曖昧で、かんたんに溶け合う。
それが、喰った喰われたを経験した後からは、明らかにミッション的に生きている。最後には、体で覚えた強烈な感覚を基に、「俺俺の時代に戻っちゃいけねえ」と訴える語り部になっている。
チカイケさんによれば、ミッションは、今の自分を決定づける強い体験(原体験)に紐づいているもの。
今していることや記憶に残っている出来事を、しつこく「なぜ?」と問い続けると見えてくるものだという。
そうすると、1回目2回目の「なぜ?」に対してはファッションやテンション的な話が出てくるが、5回も重ねると他の人とは決定的に違う、固有の偏り、みたいなものが出てくる。経済的な合理性などとは無縁なこだわりが。
これは、身体感覚に紐づいている。
文字通りの意味で、僕の腹に落ちること、胸が疼くこと、鼻が利くこと、歯を食いしんばれること、首を突っ込みたくなることは、他の人とは違う。
それがどんな意味を持つかは、腰を据えて向き合ってやっと、はじめて言語化できる。少なくとも僕は。
『俺俺』で、原体験ドリブンになった俺は、自分は世界で一人だという孤独にも耐え、誰になんと言われようとやると決めたことを持っている。
少し前まで、かんたんに別の俺の人生に成り代わる、つまり自分の人生すら秒で捨てていた人間とは、とても思えない。
残りカス的なつぶやき
自分の中では割とリンクしているつもりだけれど、あんまりまとまりのない感想になってしまった。
最近、『ある男』とか、ドラマ「天国と地獄〜サイコな2人〜」を見ていたから、自我をテーマに考えることがいろいろあった。
もう少し経ったら、まとまった考えを書けるかもしれない。