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「書くこと」と愛すること

文は人なり、なんて言う。

それは中学時代の自分にもなんとなくわかっていて、だから、自分の日記を先生に見られることは恐ろしいことだった。

中学時代、僕は心療内科に通っていた。そこの先生に、日記を書いてくるよう言われ、ひさびさに日記を書くようになった。

あの頃は、自分をひどく軽蔑していた。その発端には両親の、というか特に父の影響がある。父のことは嫌いではなかったけど、父の血が流れていることは、僕を憂鬱にさせた。

次第に父に似ていく自分の姿と、初めてむくむくと湧いてきた異性に対する感情が怖かった。自分もいずれ父のように、妻や子を、何より自分自身をひどく傷つけるのではないかと気が気でなかった。

それに、今思えば絶えず不安定で、些細なことに敏感だったあの頃だったが故なのだろうけど、僕は弟に対して暴力的だった(空手を習っていた弟の方が強かったから世話はないのだけど)。

そういう暴力性も、いずれこの手で自分や大切な人を傷つける運命を感じさせてきて、つらかった。

先生に日記を書いてきなさいと言われた時、僕は毎日毎夜そんなことを考えて悶々としていたから、日記に何を書けばいいか非常に困った。

けど、結局僕はそういう考え事をすべて、包み隠さず日記に書いた。

この重すぎる気持ちを少しでも共有したい気持ちもあったし、もし僕が本当に人を傷つけるような大人になるなら治療してもらうか、それが無理そうなら死んで仕舞えばいい、そんなことを考えていたように思う。

書いていると、不思議と気が少し楽になっていた。

✳︎

毎週のカウンセリングがすぐに来て、緊張しつつ、先生に日記を渡した。

その日、日記を見せて正解だったとすぐ思った。先生は、いくつかの文章に赤ペンで線を引いて、その横に花丸とコメントをくれた。

今となっては、コメントをはっきり覚えているわけではないけど、「自分の気持ちを表現するのがうまいね」だとか「よく考えてるね」だとか、そんな内容だったと思う。当たり前かもしれないけれど、何も批判や分析はなかった。

それが、嬉しかった。

自分そのものについては、どんなに肯定されても受け止めきれなかったはずなのに、先生の赤文字は胸の内にすっと入ってきた。

別室登校をしていたし、家庭でもまともな会話がなく、ろくに人と話していなかった当時の僕にとって、毎週日記を見せるのが密かな楽しみとなった。

あの頃は、人生で一番本を読んだ時期でもある。その刺激もあって、もっと上手く表現できるようになりたいという野望も持つようにもなった。

中学の間、日記帳はなんとなくいつも持ち歩いていた。

自分の苦しみを書き綴ったそのノートを、傷ついた小動物でも受け止めるようにそっと優しく扱っていた。

あまり意識的ではなかったけど、そのことが自分を愛せるようになるための、ひとつのきっかけだったのかもしれない。

✳︎

その後も書くことは習慣として続き、高校3年生の時には初めて短編小説を書いた。5年後の19歳の時には、初めて手にしたスマホでブログを書くようになり、同じ年にライターとして仕事をするようになった。


先生のように人と向き合い、先生の赤ペンのような文章を書きたい。



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久高 諒也(Kudaka Ryoya)|対話で情熱を引き出すライター
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