自己理解とは、他者とどう関係していくかを理解すること
私は何がしたいんだろう?
本当にやりたいことはなんだろう?
わからないから、話を聞きに行ったり、ググったりを繰り返す。
もっといい選択があったと後悔しないようにとずっと何かを調べている。力がついてから、と言って資格を探したり本を読んだりする。このままじゃダメだとふと思う。
英語習得とか、ITツールを使えるようにとか、繋がりを増やすとか、とりあえず目先でやった方がよさそうなことはやっておく。でもまだ足りないとふと思う。
たびたび「こんなことをしていて大丈夫なんだろうか」と不安になる。本当に“いい状態”に近づいているんだろうか?
どれだけやっても安心できない。
ある日急に思い立って、誰か厳しそうな人に助言されに行く。自分の尻を叩いてもらうために。
あるいは、優しくしてくれる人(or人たち)に「そのままでいいのよ」と言ってもらいに行く。
思い当たることが複数ある方には、お伝えしたいことがあります。
こんな思考や感情に悩まされるのをもう終わりにしようということです。
そのための方針をお伝えします。
<事実を見る。ジャッジをしない>
自己理解がどうのという前に押さえないといけないことがあります。事実を見て、ジャッジ(評価・判断)をしないってことです。
これだけではなんのことやらなので話を続けます。
この記事を読んでいるということは、自分は自己肯定感が低い、と思っているんじゃないでしょうか。そうじゃない方は次の章に進んでください。
読んでいる方に質問です。
冒頭のような状態の自分をダメだと思っていないですか?
思っているのなら、なぜダメなんでしょうか?
それは誰がダメだと決めていますか?
私は〜すべきなのにしていない。〜したいと言いながらしていない。だからダメなんです。そう自分で判断してます。
たぶんこんな感じのことがいろいろ頭に浮かんだと思います。さらに聞きます。
それで何がダメなんですか?別によくないですか?
また色々頭に浮かんだと思います。自分にダメだと繰り返す声を感じてみてください。
ここで気がついて欲しいのは、ダメだと決めているのは自分で、特定の状態に「悪い/ダメ」とレッテルを貼っていることです。ダメな自分と評価を下すことで、グサグサ自分を傷つけていることに気づいてください。
そこにどんな自分がいますか?
あえてキャラクター化してみるならどんな感じ?
そいつはどんな痛みを抱えている?
何を伝えたがっている?
自分をグサグサする人も、もし愛する人が同じ状態ならきっと「なんでそんなダメなの?」「生きてる意味ある?」みたいな言い方ってしないはずです。そういう関わり方では前進を生まないとわかっているからです。
もしここまで共感できたら、自分をグサグサするのをいったん保留してください。事実(目標に届いてないとか)と意見(ダメだ)や感想を分けて考えましょう。
何かをできていないことと、それがダメだとか良いとかの判断は別個で扱うべきものです。できていないことは何も悪くなくて、大事なのは「これからどうしたいか」「1ミリでもいいからどんな行動が取れそうか」のみです。
本題に入る前に長々とすみません。
とにかく、僕が言いたいのは、大前提として今どんな状態でもどんな過去を送ってきたとしてもオールOKってことです。100点です。そして、これから1000点でも1万点でも取れる力を絶対に持っているってことです。
そこから自己理解をスタートさせましょう。
<自己理解とは、関係性理解のことである>
そもそも、なぜやりたいこと探し(=自己理解)をしたいと思うのか?
冒頭の文章で中身が気になった方においては、自分の将来をなんとか良い方向に持っていくためなはずです。ただ、その方向性がぼんやりとしている。だから、何か良さそうなことをやっておきたい。何をやればいいんだろう?
こう考えるといつもの流れだと思うので、もっと大前提のことから考えてみましょう。
その漠然とした“将来が良い感じである”とはどんなものか。
ほぼまちがいなく、広い意味での他者(=家族・友人・仕事そのものや仕事仲間・世間・持ち物や住まいなど)と上手に付き合っているという意味ですよね。
たとえば、こんな家に住み、こんな家族や友人といて、仕事はこんなことをしていて、お客さんにこんなふうに感謝されていて…誇らしい(嬉しい/安心する/清々しいなど)といったふうに想像するわけです。
ある人にとっての理想は成果を出すことかもしれないし、安心することや自由であることかもしれませんが、ともかくやりたいことや理想の状態は自分以外との関係性を描くことでイメージされるはずです。
だとすると、素直に考えれば、自己理解とは自分特有の欲求や特性が自分の外側にある、ある他者(=人間だけでなく、あらゆる物、社会なども含めた意味)とどう上手く関係できるかをわかる(感覚として理解できる)ことと言えます。
よりかんたんに言うなら、関われるだけで嬉しい対象に、することそのものが楽しいことで、誰かにいいねって言ってもらえるやり方で関われたら、将来楽しく過ごせるよ、となるでしょうか。
<役者を変えただけの同じ芝居>
自己理解とは、他者との関係の仕方をわかること。ということは、
どんなもの(人や組織も含め)に囲まれていたい?
どんなふうにそれらと関わりたい?
そうなって何を感じていたい?
この3つに答えることが理想を描くということであり、
今どんなものに囲まれている?
どんなふうにそれらと関わっている?
それをどう感じている?
この3つに答えることで自分の現在地を知ることができます。
理想に向かって自分を変えるとは、何に囲まれるかを変えるorどう関わるかを変えること、またはその両方で達成できます。
ただ、前者のアプローチはおそらく本質的ではなく、結局、他者との関わり方を変えることができなければ、役者を変えただけの同じ芝居を演じることになると思います。
同じようなパターンで恋人との関係性が険悪になる友人や、同じ流れで人と離れていく人を見たことがあれば共感いただけるはずです。
「迷惑をかけないように」「期待に応えないと」「怒られないように」と強迫的に考えるあまり自分の声を無視して地獄のような作業を押し付けられてしまった人、心にもないことを言って大切な人との関係をぶち壊したりしてしまった人からの相談を僕はよく受けます。
<「いつもの」との関わり方を変える>
やりたいこと探しをする前に、まずいつも関わる何か(帰り道とか、いつもの店という抽象的なものでもいい)との関わり方を変えてみてはどうか。それが僕からの提案です。
自分のふるまいに対する周囲の反応が、実は自分の「どうせこんなもんだろう」とか「こうなるはずだ」と信じていることの裏返しかもしれないという仮説の検証です。
難しく考える必要はなくて、ちょっと意識を変えて、ちょっとの間その気になってみるだけでかまいません。
たとえば、いつもと違う道を通って帰ってみる。久々におもちゃ屋さんに立ち寄って何に興味を惹かれるか試してみる。よく使うのとは違う筋肉を動かしてみる。そんなことからでいい。
もし「私なんかが話しかけても相手は嬉しくない」と思って話しかけるのを控えがちなら、30分だけ、本当にそうかを確かめる執念深い社会学者のつもりで動いてみる。そんな思い切ったことをしてみてもいい。
ほとんど無意識で選ぶいつもの自分らしい振る舞いに、変化を加えてみましょう。「いつもの」に違う働きかけをしてください。
いつも誘われる側だけど、誘ってみるとか。いつも自分の方がたくさん話すけど、相手に話させることに徹してみるとか。部屋にあるものを楽器に見立てて音楽を作ってみるとか。
かんたんなことから始めて、遊ぶような感覚で、関わり方を変えたときの違いを感じてみてください。子どもの頃のごっこ遊びのような感覚です。
自分の意識の仕方や関わり方を変えてみるとちょっと違った反応が返ってくる。その時、自分はどう感じるかに気づく。その感覚をつかむことがまずは大きな一歩となります。
<違う仕方で描いてみる>
関係性を変えるために、こちらの関わり方を少し変えてみる。
結果、やっぱり現実は前から知ってた通りじゃないかと思うことが起きるかもしれません。しかし、動いてみたことで、わかることもあるでしょう。
たとえば、前はしていなかった挨拶を自分からしてみたが、同級生とは何も話が弾まなかったとします。やっぱり誰も俺と話したくないんだと思うかもしれません。
けど、それは前とは少し違っていて、よくよく自分の心を観察してみると実はその結果にちょっと安心している自分がいることに気づいたりする。
本当は、話が盛り上がって上手くついていけなくなる自分を想像して恐れていたことに気がつく。そんな自分に関する気づきという“成果”を得られるかもしれません。これは地味に見えて大きな意味があります。
やめたくなるかもしれませんが、めげずに関わり方を変えてみることを続けてみましょう。遊ぶような気持ちで。
大丈夫、赤ちゃんの時は何度転んでももう一回立ち上がっていたはずです。
さて、遊ぶような気持ちで、違った意識、違った設定で、関わり方を変える練習を繰り返すと感覚的に次のことがわかるようになります。
周りの環境は塗り絵の下書きみたいなもので、色を塗って意味を完成させているのは自分である。そして、自分は思っているよりいろんな色を、いろんなやり方で塗ることができる。
ただし、関わり方を本当の意味で変えていくのは時間がかかるし、そこそこ勇気がいるとも感じるはずです。
<関係の仕方を学ぶということ>
ある対象と今とは別な関係を結ぶのは単に想像したり座学したりすることではほとんど不可能です。
関わっていて嬉しく思うか。していて楽しいと感じるか。誰かにいいねと言ってもらえるか。それらは手を出すまでは分かりようがないし、わかるまでには時間がかかる。
生まれてから一度も転ばずに歩けるようになったり、座学だけで自転車に乗れるようになったりはしないのと同じです。
地面と上手に付き合うこと(歩くこと)すら、教えられて覚えるみたいなやり方では習得不可能。今歩いている人なら誰でも、何十回も転んでその力を身につけてきたのです。
他者は、それが地面であってさえ、もっと複雑な人間や仕事や組織であればなおさら複雑でランダムなパターンを示す存在です。
それと上手に付き合うという営みは、感覚的な理解による部分が中心で、感覚をつかむまで何度も試し何度も失敗しあたふたして当然です。
試すというより、ぶつかると表現した方がイメージとして近いことの繰り返しで、上手い付き合い、自分に合った付き合い方がわかっていく。
何かとの関係がわかるとは、そういうことです。
<余計なことを異常に繰り返す>
関係の仕方をつかむには、試しては失敗してという過程が必要という話でした。その過程で人は自分のスタイルというのを身につけていく。
自分がどういうものと関わるのに惹かれるのか、どういう仕方で関わるときそれ自体を楽しいと感じるのかもだんだん見えてくる。
では、歩けるようになったとして、自転車に乗れるようになったとして、それだけで他人にいいねと言ってもらえるか。稼げるか。もちろん、そんなことはありません。
何かとある程度の関係をつかむことは、実際そんなに時間はかからないでしょう。しかし、それだけでは“良い感じ”には暮らしてはいけない。
問題は、それを切実に、極端に言えば「命に換えても欲しい」と言ってくれる人がある程度(とはいえ10人や20人程度)の数いないと、社会の中で自分のこだわりを通すのが難しくなることです。
会社に勤めているなら、実際そうするかは別として、「やめようかな」とポロッと言うだけで会社に緊張が走り、待遇改善の提案がなされるような人の方が自分の思いを反映できるでしょう。
あるいは、個人事業主として独立しても数年は確実に食っていけると自信を持って言える状態なら、自分はこう働きたいと対等に交渉できるはずです。
そういうレベルに自分を持っていくには、何かとの関係にもっと自分特有のこだわりを反映した余計なことを仕掛けていかなくてはいけません。異常な試行回数が必要です。それによって尖った能力を作る必要がある。
<ピッタリな何かが現れる期待を捨てる>
ここまででなんか大変そうと思った方に前置きをしておきます。
1ミリも嫌な部分がない完璧なやりたいことがどこかにはあって、それは出会えばわかる。もしもそんな感覚でいるとしたら、自分を疑ってみた方がいいと僕は思います。
これだと思える理想像、これだと思える仕事、この人だと思える仲間、そういうのがある日天啓のように降りてくるんじゃないか。
このような自分にピッタリな何かがどこかにあって目の前にいずれ現れる、という発想は幻想です。
さっき言ったように、やりたいこと探し(=自己理解)は関係性を理解していくことであり、関係性の結び直しを繰り返して自分特有の癖を見つけ、しっくり来るあり方に調整していく作業です。
暴力を振るわれたり、不当な扱いを受けているならともかく、自分の関わり方をあれこれ変えてみることなしに役者だけを組み替えようとする試みは長い目で見れば失敗に終わります。
厳しいように感じるかもしれませんが、このことは自分次第で自らの手で自分の経験の質を変えることができるという希望でもあります。
<異常な繰り返しの事例>
さて、話を戻して。自分特有のこだわりを反映した余計なことを異常な回数やるという話でした。
例を挙げます。僕は昔から人に何か教えるのが好きでした。
特に、こういう見方をすると面白いと思ったことを人に解説せずにはいられない特有の欲求を持っています。
小学生の時には、本やテレビからせっせと雑学的な情報を仕入れては、先生や親、友人にベラベラと伝えていました。
うるさいと言われるなど、完全に余計なこと扱いを受けましたが、それでも辞める選択肢はなく、どう工夫すれば伝わるか、面白いと思ってもらえるかの方が大事なことでした。
そんな感じで、中高でも、ずっと誰かしらに何かを説明してハッとさせてやろうと余計なことを繰り返す日々を送ります。
情報収集は読書が中心で、気づけば2000冊くらいは読んでいましたし、自分の考えを紙のノートに残していたら数百冊分になっていました。
そんな感じで余計なお世話を繰り返すうち、自分のスタイルが確立されていきました。百近くはある気づきを与えるための会話の工夫を、今は自然に行えるようになっています。
一例を挙げると、会話のうちほとんどを相手に話してもらいつつ、自分の反応の仕方や質問によって、最小限の言葉数で人をハッとさせる、みたいなことも少しずつ身につけています。
<悪くない今を俯瞰する>
特有のこだわりを反映した、余計なことを繰り返すことと言いましたが、ただ同じことを繰り返すのとは違います。
関係の仕方を結び直すために、絶えず結び目を解き、新たな形で結び直すことをやるイメージです。
同級生に挨拶をしてみることが容易になってきたら、今度は授業中に手をあげてみたり、ちょっと距離を置いてきた相手に話しかけてみたりするとか。
なんですが、こういうちょっとしたチャレンジは割とすぐに飽和してきます。こなれてきてしまう。
ある程度までいくと現状も悪くないなと感じ始めるので、自ら変化をやめてしまうこともあります。
満足しているからいいじゃない、と言われればそうですねとしか言えませんが、思い出してみてください。
僕らの目指しているところは、関われるだけで嬉しい対象に、することそのものが楽しいことで、誰かに「君がいなきゃ困る」って言ってもらえる(対価をいただける)やり方で関わることです。
もしそんな状態にあるなら、このままでいいやとはなりません。次から次へと作りたいものが出てきて、もっとこうしたい、あぁしたいと思えるからです。
つまり、もう少し先を目指す必要があります。
ここまであれこれと試し感じることを繰り返したことで材料は揃っています。次のステップが、ようやく自己分析です。
<衝動の仮説を立てる>
ここで僕らがつかみたいのは、自分特有の欲求や特性です。これをwant toと呼んだりします。
腹が減ったり、眠くなったりするように、計画的に論理的に考えてではなく体が欲する自分らしい動作・行動(want to)の仮説を立てます。
これが全くピンとこない人は、おそらく結果(承認、評価、成果、規則を守る)のために取る行動にからめとられ過ぎています。
その場合は、いつものやつと違う関わり方をしてみるフェーズに戻ってください。もっといろいろ遊んで試してみましょう。
なぜそれが大事かといえば、僕らが見つけたい自分特有の欲求とは、結果のためではない行動のことだからです。衝動と言ってもいい。
その行動を取れなくなるくらいなら、別にそれ以外がどれだけ理想的でも人生がつまらないと思えるような行動です。そんなの本気で遊ぶことでしか見つけられません(ちょっと誇張)。
want toについての解説は以下2つの動画を見てください。この2つ以上に説明することがないです。
<理想を描く>
「いつもの」との関わり方を変えてみる。何度も転ぶのが前提で、何度も遊ぶように試してみる。余計なことを異常にやる。
その中でだんだんと心が解放され、自分がどういうものに惹かれるのか、どんなふうに働きかけるとき楽しさを感じていそうかわかってくる。
そういえば小さい頃もこういうこと繰り返していたなと思い出すかもしれません。もしあれば、自分に通底する欲求(真なるwant to)が見つかった証です。
ここまで来れば、気持ちも明るくなってきて迷いも少なくなってきていると思います。
とはいえ、まだこれでは理想の状態とは程遠いところにあります。
なぜなら、そもそもまだ理想を描いていないからです。
ここまでで身につけたのは、以下3つ。
・関わり方を変えると周囲の反応が変わる
・違ったらまた試せばいいの精神
・自分の衝動が何かわかる
これで準備は整っています。いよいよ理想を描いてみましょう。
再び動画を紹介します。
ゴール設定について、これ以上にない良い説明をしている動画が2つあり、この2つを見てもらえれば特にそれ以上にいうことがないのでぜひ見てみてください。
ゴール設定までできれば、迷いはほぼなくなるはずです!
<終わりに>
ここまで読んでくれてありがとうございます。
さすがに後半 動画に頼りすぎでは?
と自分でも思っていますが、本当に上手に説明されているので紹介させてもらいました。
僕としては、こういう動画を見ても行動に落とし込みにくそうな方を想像して、もっと手前にあることってなんだろうと考えながら書いてみたつもりです。
なので、動画が貼ってあるところまで理解することを焦らず、前半の方を実際に日常に取り入れてみるところから始めてみたら良いと思います。
ネガティブな思考がすごく邪魔をしてきますという方は、ぜひ少し前に書いたこちらも参考にしながら自分のペースで進んでみてください。
繰り返しになりますが、今どんな状態でもオールOKです。
ここからどうとでもなります。ダメだと思った時こそ、「こっからこっから」とつぶやいてみてもいいかもしれません。
心からあなたがあなたの人生を愛せるようになることを願っています。
<付け足し>
自分をなかなか変えられないと絶望を感じている人は、メンターやコーチをつけることをおすすめします。
良いメンター=厳しいフィードバックをする人ではないので、そこら辺は気をつけてください。
本人自身が自分を大きく変えるような決断を繰り返し、挑戦していて、失敗もたくさんしている、かつ人好きで、さらに認知科学的な側面に理解のある人だとかなりよいと思います。
相談相手は慎重に選んだ方がいいですが、よいメンターをつけた場合の変化は圧倒的な質と早さになります。
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