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繋がりたいけど繋がれない

もう久しぶりに凹んだ。

こんなにできないものか。

こんなに思う通りにいかないのか。


支援級の児童Aと決まった時間に過ごす。

週に5時間ほど、授業支援として。

出会って3年目。

がっつり一日中一緒にいることは今までなかったが、言葉を交わしたり、Aの学習指導もこれまでしてきたこともあり、コミュニケーションはとることができていた。

気になること(もの)があるとそちらに気が向いてしまう。気になってしまう。

注意を逸らせるためAの興味関心を引くような物を用意したり、「君ならできる!」と思えるような言葉がけをしてやる気を引き出し、活動の抵抗感を下げながら学習に参加させてきた。

支援級の先生方からもそういう風に教わった。

が、

あるとき思った。

それでいいのか?

それがAにとっての本当の支援なのか。

間違いじゃないと思う。

でも「怒らせないため」とか「機嫌良く」授業に参加することを重視しすぎて本当に大切なことを伝えずにこのまま過ごして一年間が終わってしまうのではないだろうか。

つまり、これまでの支援の仕方であれば、きっとAは気づく。

「この先生は自分が怒ろうとしたら自分の好きな物を用意してくれて、授業に参加したくないと言えば常に褒めてくれてる」と。

本人から直接聞いたわけではないが、私自身はそう感じた。

してはいけないことにはきちんと理由があって、Aにもクラスの仲間も悲しい思いをして欲しくない。

そしてやはりAにも学ぶことの楽しさを感じて欲しい。クラスの仲間と共に。


体育の時間。大縄跳びをみんなしようという授業。

Aは引っかかってしまい、癇癪を起こしそうになる。

しばらく何も言わず周りの仲間がどんな行動を起こすのかそっと見守ってみた。

「大丈夫やって!私も引っかかったし。これで終わりじゃないし。」

「じゃ、もう一回やる。」

友達からかけられた言葉に最初は不服そうな顔をしていたけど、Aの前の友達が次々に縄に向かって飛ぶ姿を見て笑顔を取り戻し、自分の番が近づくにつれ「頑張れー!」と応援するAの姿があった。

仲間の言葉、仲間の頑張る姿、できなくてもまた次チャレンジする言葉と行動の一貫性。そして、みんなの中の一人だという安心感。

一緒に大縄跳びをする授業を楽しみながら参加していた、A。

こちらがどうこう言う場面は一瞬もなかった。


教師は支援者。

本人の困り感を受け止め、今できることを最大限に使って、できることをどんどん増やしていく。

その手立ては様々あるし、相性もあるだろう。


昨日。

してはいけないことをしたAに、「これはいけないことです」と伝えた後、癇癪を起こしながら「そんなことわかってる!!!」とAに大声で言い返された。

理由を言わなくても本人が良し悪しは理解している。

わかっているにも関わらずしてしまう自分がいることに、Aは苦しんでいるんじゃないかとその時は感じ、今も思っている。


久しぶりに本当に凹んだ。

もっともっと勉強したいし、しなくては。

学校中の児童一人ひとりが安心して学校へ登校できるように。。。

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