「禅入門」(ひろさちや)を読む
拝啓 奥さんへ
夫の好きなひろさちや先生の本の紹介です。
正式名は「もっと自由に生きるための禅入門 ~どんな生き方をしてもいい、立派に生きる必要なし~」です。
この本で書かれていることは5つに集約されます。
この5つが禅の根本原理です。そしてまた、これらは仏教の根本原理です。
仏教の教えは、つまるところここに尽きます。
莫妄想:余計なことは考えるな!
一得一失:なんだっていい。
自灯明:他人のことはほっとけ!
放下著:常識を捨てろ!
竿頭進歩:がんばるな!
まず、前提条件として、世界に数多い宗教に共通している特色は何かというと、「人間というものは、弱くて、愚かで、不完全な生き物である」であると考えるところにあるようです。神と呼ばれるか、仏と呼ばれるか、呼称は違っていますが、完全な存在というのは神仏だけで、人間は不完全きわまる存在なんです。そう考えるのが宗教の宗教たるゆえんだと思います。
さて、今回は禅の第一原理である「莫妄想」について考えたいと思います。
ひろさちや先生の要約では、「余計なことは考えるな」ですが、もう少しかみ砕いて考えてみましょう。
禅が、莫妄想(余計なことを考えるな)と教えるのはよくわかります。われわれは妄想に悩まされて、未来のことをあれこれ考えはじめると、夜も眠れず、怯えてしまい、卑屈になり、媚びへつらうようになります。
不透明な時代です。こういう時代、かえって人間は未来に怯えるかもしれません。怯えるのは馬鹿なんです。そもそも未来が読めないのは当たり前です。イスラム教徒に言わせれば、未来は神の権限下にあります。「イン・シャー・アッラー」です。未来は神の思し召しのままなんです。
ところが、宗教を持たない日本人は、未来が人間の思うがままになると考えてします。高度経済成長期時代というのは、まさに経済を人間の計画のままに動かそうとした時代だったのです。だから、日本人は、未来がよめないとなるとあわてふためきます。なんとかして未来を読もうと必死になります。にも関わらず、未来が読めないものだから、怯えてしまうのです。
いまこそ、しっかりと、禅の教えである莫妄想(余計なことは考えるな)を学ばなければなりません。私はそう思います。
イエス・キリストは、
と言っています。良く知られた言葉です。
イスラム教の聖典「コーラン」の「洞穴の章」には、次のようにあります。
では、仏教ではどうでしょうか?
仏教の開祖の釈迦は、次のように言っておられます。
仏教の釈迦の教えは、イエス・キリストの教えやイスラム教の教えとまったく同じです。もっとも、仏教においては神は立てませんから、未来は神の権限下にあるとは言っていません。釈迦は、未来はまだやってこないのだから、未来を願うなと言っているのです。
最後に、第五原理:竿頭進歩:がんばるな!で締めくくりたいと思います。
これも第一原理の莫妄想の延長だと思ってください。
人間がんばりはじめると、今日という日を否定してしまいます。いや、今日はよくないと考えるから、明日のためにがんばってしまうのです。
今日を大事にしましょう。
がんばらずに、ゆっくりと生きましょう。のんびりとやりましょう。
なんだっていいのですよ。貧乏であっても、病気であっても、怠けものであっても、のんだくれであっても、性格破綻者であっても、嘘つきであっても、助平であっても、あなたはあなたなんだから、あなたがあるがままでいいのです。あなたはそのままで幸福になれます。そして、あなたが幸福になれば、禅がわかってくるのです。勘違いしないでください。禅がわかれば幸福になれるのではありません。幸福になれば、禅がわかるのです。
したがって、禅の学び方は、あなたが幸福になることです。
どうか、幸福になってください。
本日はこれまでとします。多謝。