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「論理哲学論考」に学ぶ哲学・数学

拝啓 奥さんへ

『論理哲学論考』は、20世紀の哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによって書かれた哲学書です。1921年にドイツ語で初版が発行され、1922年に英語版が出版されました。この著作は、分析哲学と論理学の領域で非常に影響力を持ち、特に言語、意味、論理の性質についての議論で知られています。有名な本で文庫にもなっているので、夫も手に取って読んでみましたが、最初の数行で挫折しました(笑)

世界は成立していることがらの総体である。
世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

論理哲学論考

「???」。いきなり何を言いだすのでしょう?さっぱり意味がわかりません。この手の本にありがちなことですが、一番最初に最も抽象的なことや定義、公理などが書いてあり、つまづきの石になりがちです。そこで、視点を変えて最後から読んでみることにしました。

語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

論理哲学論考

少し補足して、「およそ語られることは明晰に語られうる。語りえぬものについては、沈黙せねばならない」これは、言語で表現できないもの、すなわち論理的・科学的に意味を持たない命題については、語ることができないという考えを表しているそうですが、ここまで来れば「なるほどね」と共感できるものがあります。深い意味はわからないとしても。

そこで、論理哲学論考の中で夫が共感(たぶん、理解はできていない)できた部分のみを抽出して、論理哲学論考の魅力を伝えたいと思います。まずは、哲学についてからの論考です。

哲学の目的は思考の論理的明晰化である。

論理哲学論考

ウィトゲンシュタインは、哲学の目的は世界の事実を説明することではなく、言語の論理的構造を明確にすることであると主張しました。彼は、哲学的問題が言語の誤解から生じるものであり、哲学の役割はそれらの誤解を解消することだと考えました。なるほど、これは鋭い考え方ですね。さらに続いてウィトゲンシュタインは哲学について語ります。

哲学は学説ではなく、活動である。
哲学の仕事の本質は解明することである。
哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。
思考はそのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせなければならない。

論理哲学論考

哲学について具体的に語られていますが、最後の「思考はそのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせなければならない。」の部分には、「なるほど!」と思わず手をたたきたくなるほどの痛快な気分になりました。哲学はうんうんと唸りながら難しいことは考えるものだと思っていましたが、それは単に悩んでいるだけであって、考える必要のない問題なのですね。最初の一行で挫折するには、もったいない本ですね。こんなに心を揺さぶる言葉が含まれているのに。

では、続いて「数学」についてです。論理哲学論考で数学が話題になることも少ないですが、ウィトゲンシュタインは数学についてもアドバイスをくれています。

数学とはひとつの論理学的方法にほかならない

論理哲学論考

数学と経済学の参考書で有名になった細野真宏氏は「数学を勉強することの意義とは、論理的な思考力を身につけるため」であるといいます。そして、「論理性を必要とする数学や経済や日常生活などはすべて同じものである」と説きます。これはまことに至言で、「数学は何のために勉強するのか?」という私たちの疑問に対する明確な答えの一つだと思います。ウィトゲンシュタインも同じことを言っています。実は「論理」こそが数学にとっての生命なのです。知識の質は「論理」にあり。

数学の命題は等式であり、それゆえ疑似命題である。

論理哲学論考

すべてを「等式(=)」でつなげるのが数学です。脳の中ではそれはあり得るかもしれません。脳は回路でできているので、すべてをイコールにするのは情報処理的にも都合が良いのかもしれません。しかし、現実社会は複雑ですので、すべてが同じになることはありえません。それゆえに、数学の命題は疑似命題、つまり、表面的には哲学的または数学的な問題のように見えますが、実際には言語の誤用や混乱、あるいは概念の不明確さから生じたものであり、意味のある解決を必要としない問題だとウィトゲンシュタインは指摘したわけです。

確かに、数学は人間の役に立たない虚学かもしれません。しかし、虚学である数学を学ぶことによって人間は自らの限界を知ります。そして、その限界の外部に目に見えないが、確実に存在する事柄があることに気づきます。このような外部に存在する超越性のおかげで、人間は自らの狭い経験や知識の限界を突破し、自由になることができると数学好きの夫は信じたいと思います。

数学の命題はなんらかの思考を表現するものではない。
実際われわれは、生活において数学の命題などまったく必要としない。

論理哲学論考

これも数学や哲学が疑似命題であることのとどめの一撃となっています。彼は、哲学的な問題の多くが言語の誤解から生じるものであると考え、これらの問題は論理的分析を通じて解消されるべきだと主張しました。例えば、「世界の意味とは何か?」や「存在とは何か?」といった問いは、言語の論理的な枠組みの中で意味を持たないため、疑似問題として扱われるべきだとしました。数学も同様ですね。余計なことは考えるなということです。そして、「およそ語られることは明晰に語られうる。語りえぬものについては、沈黙せねばならない」に戻るわけです。なお、ウィトゲンシュタインは沈黙しなければならいことのほうに重きをおいていたそうですから、この言葉は意味は深淵であるとみたほうが良さそうです。

確率とは一般的にほかならない。
すなわち、確率は、ある命題形式に対する一般的記述を含んでいる。
確実性に欠けるところでのみ、われわれは確率を必要とする。

論理哲学論考

最後に確率についてのウィトゲンシュタインの言葉です。データサイエンスやビックデータ解析、AIの融合がトレンドになっていますが、そこでは当たり前のように確率が登場します。しかし、数学とは「確かさ」の学問です。正確であることが美しい。現在社会は「これは確かである」と感じることが少なくなっているのではないでしょうか。確率を使うことが当たり前になっている考え方は不健全だと夫は考えます。確率とは一般化にほかなりません。まずは「確か」な学問である数学を学び、抽象的なこと、本質的なことに関する演繹的な考え方、論理的思考を身につける。そのうえで、確率を使ったデータサイエンスに入るのが王道だと思います。多謝。

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