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言語を学ぶとはどういうことなのか。私の考え

英語、中国語、広東語、台湾語、チベット語、宜蘭クレオール、朝鮮語、アイヌ語、沖縄語、ロシア語、タイ語、ラオス語、ビルマ語、カンボジア語、チワン語、ミャオ語、インドネシア語、マレー語、ヒンディー語、ネパール語、アラビア語、ベトナム語、アゼルバイジャン語......

少しでも学んだことがある言語なら十数個あります。
しかし、私が自由自在に操れるのは母語である日本語のみです。

モノリンガル

私は、日本語以外はできません。
英語や中国語などいくつかはある程度、読み書きができますが、リスニングがすごく苦手で、なので「できる」とは言いたくありません。
耳から入ってくる言葉を処理するのがあまり得意ではないので、日本語でも怪しいときはあります。
それを除いても、英語を日本語のように自由自在に操ることは私にはできません。

でも、できなくて当たり前かもしれません。
母語は特別な存在なんです。
私は母語を大切にしています。
日本語なら自分なりの面白い文章は書けるし、綺麗な文章もたくさん楽しめます。

生まれたときから今まで、一番長い時間触れている言語で、そして一番好きな言語です。
普通に考えて、いくら英語の勉強をがんばっても日本語と同じように使えるようになるのは厳しいです。不可能だとは思いませんが。

外国語は外国語であって、多くの場合外国語を使う感覚は、母語を扱う感覚とは全く異なります。
そこを勘違いしていると、いつになっても外国語を扱えるようになれないかもしれません。

違い

言語には個性があります。
日本語と朝鮮語は比較的似ていますが、日本語と英語はあまり似ていません。

言語というのは、常に変わり続けます。
歴史や文化によって変化します。
そして、その土地の人たちの「思考」が反映されています。

外国語を学ぶということは、その「思考」を知ることでもあります。
「学んでいる」ということは、「思考を知る過程にある」ということです。
要するに、まだ思考を理解できていない段階です。

各言語の個性にはそういった思考も含まれます。
世界中の言語はそれぞれ違いがあって、なにかの言語と完全に同じ構造をもった言語は存在しません。
つまり、言語を完璧に翻訳することは不可能です。
例えば、英語にある「冠詞」は英語に近い言語たちのもつ(それ以外のグループにもありますが)思考です。
一方で、私たちの使う日本語はそれを持ちません。日本語の思考ではないからです。

学ぶ

言葉を学ぶことで、自分の思考にはない新たな概念が得られます。
名詞の性別を区別するのを理解して、思考を拡張できます。

もちろん、言語はコミュニケーションの道具でもあります。というか、一番の目的はそうです。
なので、使えなければ意味がないです。

でも逆に、その考え方では、不自然でも伝われば問題はありません。
外国人として外国語の思考を学び、外国語を使って、伝える/受けとることがどちらか一方でも、不完全だとしても、できれば、その言語が「できる」と言っていいでしょう。

目的

言語を学ぶのに、まず必要なことは「目的」です。語学に限らずそうですが。
先述の通り、私はリスニングが苦手です。
しかし、それでいいと思っています。

私が言語を学ぶ目的は「言語を知る」、そしてそれを楽しむことです。
文法や発音が好きなので、それに十分触れられれば、目的が達成できます。
私は、実際に会話をするために言語を学んでいるわけではありません。(機会がないのはさておき、会話ができるようになったらそれはそれで楽しいでしょう)

私とは違いコミュニケーションをとりたいだけならば、私のように文法に浸る必要はないと思います。
言語を学ぶ際には目的を大切にしてほしいです。

さいごに

最後まで読んでいただきありがとうございました。

言語はとても面白いものだと思っています。
私は実は最初は「文字」が好きだったんですが......。
そんな話も気が向いたら書くかもしれません。

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