【読書感想】危機の時代の教育(現代思想2022.4)
春先に教育問題を取り上げるのが『現代思想』誌の恒例っぽいのですが、今年はコロナ状況を取り上げるにしても目新しさがないし、こども家庭庁もまだもやもやっとしている段階なので苦戦していた印象でした。21年7月30日の英語民間試験導入の失敗がホットといえばホットなのか。あとは21年10月1日の埼玉教員超過勤務訴訟の地裁判決と、22年1月28日の「2025年から共通テストにおける「情報」の導入」の発表。これらに触れている討議・論考が面白かった。
妻と一緒に読もうと思っていたのですが、資格の勉強のほうに移行されてしまったので、ひとりでNoteに写経しつつ読んでいました。
【討議】
異文化への窓を開く――これからの英語教育へ向けて / 大内裕和+鳥飼玖美子
妻は鳥飼氏の講演を聴いたことがあるらしい。流暢な論客で面白かった。
第1節の英語民間試験の活用については、採点基準の理念的・技術的課題やそれを大学入試に適用することによる高校の授業への影響などがこれでもかと問題点を抉られて気持ちよかった。改めてめちゃくちゃな政策だったのだなと。
第2節の臨時教育審議会による教育の自由化、民営化については、たまひよの内祝いの使い勝手が著しく悪かったのを体験して以来ベネッセ社のアンチなので、教育業界が政治に地歩を得て公教育を民営化させ、市場を拡大する構造を改めて説明されるとそうだよなという気持ちになる。
では公教育を見放して私学教育に向かうのか、公教育の改革を求めるのか。選択肢がとれるうちは良いが、公教育に頼らざるを得ない階層の場合、自分の子どもが就学するまでに時間が足りるか、ということは気になるだろう。
第3節のコミュニケーションの手段は政策に対抗する理念として興味深かった。「グローバル化というよりはむしろ多文化・多言語社会に価値観を切り替えたほうが良い」そのために必要なのは「異文化コミュニケーション」であり、その採点基準は「流暢に話せること」というよりも時間をかけてでも異なる他者と理解し合える「状況的コンテクスト」(その場の状況、会話の目的、聞き手と話し手の関係)や「文化的コンテクスト」(話者の文化の関わり)の理解度にあるのでは、と提案する。まず母国語でそれを行うのが困難だ、というのは同感でした。
【〈改革〉にさらされる教育】
官邸主導の英語教育政策――その惨状と打破への課題 / 江利川春雄
活動のイデオローグとして。英語民間試験反対運動について「こうした一連の運動こそが、十一月の実施見送り決定へと追い込んだのである。萩生田大臣の格差容認発言によるオウンゴールが要因ではない」は誇り高いが、GIGAスクール批判は出典が全くなくポジショントーク気味。とはいえ問題点が門外漢にも分かりやすく整理されていて良い。これが活動のイデオローグ。
私たちはこんな未来を夢見ただろうか――「国語」の戦後史 / 佐藤泉
国語は「言葉をコミュニケーションや情報処理の道具、意味を運ぶ手段ととらえる言語観」により新自由主義と親和し、そして「連綿とつながる言語文化を誇りとする主体を形成するため」のものと再定義されてナショナリズムを補完するものとなったと分析。
その後戦後教育における「実用と文学の分割」がどのようになされたか歴史が語られるのだが、著者の立ち位置が伝わりづらかった。例えば「普遍性」という言葉は共生のキーワードとして称揚される一方で、西欧による多文化の植民地的支配の指示語ともなり注意が必要と思うのだが、著者は「普遍性」を称揚したいのか批判したいのかがP46-47あたりの記述を注意深く追ったつもりだが混乱が解けなかった。
教育を「開発」「投資」と位置づける経済至上主義については他論考とも共通。「大文字の理念を情熱的に語ったリード文」が消えていく哀惜などはよく伝わってきて良かった。
〈市場化する教育〉の現在地――抗いがたさはどこから来たか? / 児美川孝一郎
さらっと読みやすい論考。<市場化する教育>は経済界からの要請でもあるが、教育業界もまた、塾の存在を認めることで競争を暗に肯定してきたという複雑な構造を指摘している。P56「2000年代初めの「学力低下」問題の発生、少子化で経営環境が厳しくなった私立学校の増加、さらには学部・学科の新設、AO・推薦入試の広がり等による大学受験指導の多様化・高度化といった追い風を受けて」塾業界が「塾と連携した小・中学校、予備校と手を結んだ高校での授業等の提供、教員の研修、生徒募集から教学改革、学校組織・運営の改革に至るまで学校経営のコンサルティング、入試情報や学力診断の提供」といった多角的な発展を遂げているのを体系的に列挙してもらったのは整理がついて良かった。Society5.0も「社会のあらゆる領域におけるイノベーションは、企業によって担われるという「お約束」」と喝破しており、改めて経済産業省が害悪だなとの印象を深める。
【〈親〉と〈こども〉のポリティクス】
こども家庭庁の「こどもまんなか」政治――ネオリベラルな「ウェルビーイング」 / 桜井智恵子
「ウェルビーイング」というキーワードが、「幸福で充実した人生を送るために必要な、心理的、認知的、社会的、身体的な働き、潜在能力」であるというアマルティア・センの定義によって、機会の平等さえ果たせば結果の平等が果たされなくても自己責任だという思想として定着したと指摘しており、こども家庭庁の根底にある思想の疑義を問い質す。
文章がこなれておらず読みにくかった。こども家庭庁が子どものデータベース化をメイン事業にしているのは初めて知った。しかもイギリスでは既に頓挫し、廃止されている事業。このあたりの批判が緩めだったのが物足りなかった。
家庭教育支援条例とPTA――「現役保護者の声」はどこにあるのか / 堀内京子
この著者の『PTA モヤモヤの正体ー役員決めから会費、「親も知らない」問題まで』は読んだことがあったので、中盤のPTA論をはじめとして総括的に読んだが、論考としてもまとまっていて良かった。こと教育分野においては、なんだか朝日新聞の思想に染まってきている気がするのは、ここで批難されている右寄りの言説に気持ち悪さを感じるからだろうと思う。(でも妻は感動していた。)
【格差と排除に抗う】
学生に賃金(生活保護)を / 桜井啓太
ケースワーカーと喋っていると「受給者たちはそれを地位のように思っている」と不満節を聞くことがあるので、実は当局と本論考は問題意識を共にしているようにも感じられたのだが、保護の対象は「生活に困窮するすべての国民」とすると困窮階層を作り出してしまうので「すべての国民はその生活が困窮している時に」とすべきだと論じる。教育問題について読みたい読者は戸惑うかもしれないが、個人的にはとても面白かった。
中盤までは大学生の困窮という問題に対して「生活保護世帯の進学支援」とリフレームされた対応が図られ、問題の原因が自助努力に帰されてきた顛末を、行政実務のミクロにまで目を及ぼして精緻に指摘しているのだが、中盤から怒りのアジテーションが強くなってくる。
「金持ちの家族に依存していたり(家族依存)、偶然割り当てられた健康な身体に甘えていたり(健常依存)、たまたま無理ができて稼げたり(稼得依存)、一、二回のテスト結果で過剰に評価する社会システムに依存している人びと」という捉え返しが奮っている。「すべての学生が生活保護を」受給することで、「八割を超える若者が人生のある時期に制度利用したという事実は、貧困とそこへの保障の理解に貢献するだろう(助けてと言える社会)」も説得力があった。
大学等就学と最低生活保障/自立助長――未来時制に侵食される現在 / 三宅雄大
大学生と生活保護。一つ前の論考と同様の問題意識だが、生活保護の運用における「未来時制の自立(世帯の経済的自立、保護脱却、就労自立のいずれか)」による条件付けを詳細に検討している。かなり技術的ではあるのだが、仕事で次官通知などを読んだことのある人間にとっては、なるほど、そのように分析するのか、と興味深かった。
反ジェントリフィケーションと教育――ブルックリンの運動の現場から / 森千香子
短めの論考。何を書いて欲しくてこの著者にオファーしたのだろうか。ニューヨークを舞台にして”ジェントリフィケーション”という単語が特に注釈なく出てくるのは、現代思想読者なら当地の基本的な構図は分かるでしょ?と試されている感があるな。街頭運動だけでなく、住民(借家人)としての権利や、仲間の取り組みについて学習する会合を「教育」と呼んで広げている、反ジェントリフィケーション運動の事例がいくつか取り上げられていた。
学校教育と排外主義――コロナ禍で浮かびあがった状況に学ぶ / 清水睦美
「制度的差別」により「外国人」を日常的に不可視化しているにもかかわらず、「非日常」の文脈を作り出すことで「外国人」として「可視化」しているという構造があり、それはコロナ禍という非日常だけでなく、マジョリティが恣意的に作るものでもあることを示すために、「日本型排外主義」は日本という民族化国家の内部に在日コリアンを含めるという二者関係ではなく、韓国・北朝鮮との関係の変化に応じて在日コリアンへの眼差しを変化させる三者関係へと逃避して「非日常」を作り出してきたと指摘している。
子ども個々人の権利が保障されているというよりも、子どもがどの学校に在籍するかによって保障の質が異なることや、自治体レベルの政策が大阪のような人権行政の延長、または横浜のような国際交流の延長で、三者関係への逃避が困難であったがゆえに政府レベルに先駆けて発展してきたなどの分析も面白かった。
【教育とジェンダー】
「生命(いのち)の安全教育」には何が欠けているか――性的同意教育の重要性 / 小川たまか
性教育が開始されたのは成果だが、「性犯罪・性暴力対策」の一環として開始されたことで、同意のある性行為のポジティブさが伝わらないままに性そのものがタブー化される懸念を指摘している。裁判例や法整備などが丁寧に整理されており読みやすかった。
性の多様性教育実践をめぐる一考察――「性のグラデーション図」の三つの落とし穴に着目して / 島袋海理
「性のグラデーション図」による実践は「マジョリティもマイノリティもだれもが多様性の中に対等に位置づく存在だという学び」の提供が期待される一方で、「体の性」はDSDs(インターセックス)に対して逸脱的であるとメッセージを与えかねない点、「心の性」は思春期における自認の揺らぎを掬い取れず、他者との関係性にもとづいて性別への意識が構成される側面が見落とされる点、セクシュアリティをカテゴライズしない自由が確保されているか不明な点を指摘する。
性教育において「マジョリティを含めた学び」と「当事者に関する学び」に緊張関係があると表現しているが、身も蓋もない言い方をすれば、むしろ「マジョリティが当事者を知るための学び」と「マイノリティが自分について知るための学び」がコンフリクトしているというか、多様性への配慮を促す場の形成に際して配慮が必要となる、という二重構造になっていると思うのだが、それだと「対等に位置づく存在」というタテマエが喪われるという隘路に落ち込んでいるように感じた。
【働き方をめぐる問題】
教員労働の「本来的」を問い直す――埼玉教員超過勤務訴訟判決の批判的検討 / 赤田圭亮
「研究者でも法律家でもない。中学校を職場として長く働き、その場を去ってもいまだ現場への思念を止められない元教員」による25Pにわたる熱い論考。2021年10月1日の埼玉教員超過勤務訴訟の地裁判決が、いかに50年前の教職員給与特措法の論理破綻を繕うため、また時代の変化に目をつぶり、結論ありきで牽強付会な構成を取っているかを多角的に検討しており読み応えがある。法律系の雑誌に載せて現場知らずの裁判官に反省を促したいところだが、現代思想の論考は首尾よく彼らにリーチするのだろうか。
非正規教員の任用をめぐる問題と今後の課題――非正規教員の定義の曖昧さと役割の変化を中心に / 原北祥悟
「教師不足」とは正規教員の不足ではなく、非正規教員(具体的には臨特的任用教員等)の不足を指していること。文科省及び総務省の統計は「職位」や「任用形態」によって数えていることから、労働運動の成果によって待遇改善し、教諭として遇されている非正規教員の数がカウントされない(学校基本調査)/カウントされてしまう(会計年度任用職員等臨時・非常勤職員調査)という問題があること。教育の質の保証の観点から非正規教員の専門性を何らかの方法で担保しなければならないことなど。論点が整理されており興味深かった。三位一体改革前後の教育行政の”改悪”というのももう少し深めて読んでみたいところ。
【現場から問う】
「託児所」としてのエッセンシャル・スクール! オーマイゴッド! / 岡崎勝
新型コロナ2年目の学校、GIGAスクール、文部科学省の使う用語の劣化、働き方改革、学校託児所論の5本立てで現場視点を導入。長いが鋭く切り込んだ語り口が読み物として面白いので、すらすらと読める。
ただし、「託児所」としての学校を批判するのかと思ったら肯定しているので面喰らう。働き方改革の不全を批判する一方で、コロナの節では「学校の営みは、意味があるからやるのではなく、やるから意味があるのである」と二枚舌で、「俺ら現場がいつも正しい」感は拭えず、赤田論考のような真摯さは薄いので、文科省役人も「ご意見承りました」くらいしか言えないだろうな。
原発災害下の学校と子ども / 大森直樹
”原発被災校”を「避難区域、自主的避難等対象区域、汚染状況重点調査地域のいずれかに対応する地域の学校」と定義すると、8県(岩手・宮城・茨城・千葉・栃木・埼玉・群馬)の公立2346校、735,660人に及ぶが、政府の各種施策が”福島”と”福島以外”に分断されることで抵抗の弱体化が企図されているとか。確かに関西の人間からすると具体的な対処範囲はイメージが掴みにくいところだが、東京の人々はもうちょっと身近な感覚を持てないものなのか。
それで本論は原発被災校において、児童・生徒たちの体験をベースに教材が編まれて実践されている状況の紹介だが、避難先での躓きや信頼の喪失などをケアするための表現の機会・社会による選択のプロセス・体験の共有などが図られていると。特に目新しい主張はないが、必要な活動が丁寧に整理されていた印象でした。
【情報と論理】
高等学校における情報教育と共通テスト / 吉田弘幸
予備校講師による共通テストへの「情報」導入の批判論考。授業カリキュラムの問題及び共通テストで問うことの問題が分析されており、英語試験のように中止が相当であると主張している。
「すべての高等学校において試験の内容に対応しうる授業が提供できる準備が整っていない」については、選択科目としての地学や倫理などを想起するが、「情報」は必須になるのでより深刻であると感じる。また世界史の履修漏れ問題のように「形式的な不備」ではなく、「履修コマ」自体は充足しているけれども「内容的に不足」という状態のほうがこれもまた深刻であると思われる。
試行錯誤のすすめ――プログラミング教育に必要不可欠な姿勢について / 山本貴光
「学校の教室で、生徒たちに失敗を含む試行錯誤を楽しむ、そうした姿勢を教えることができるかどうかがプログラミング教育のカギを握っている。これは、教科書に載っている知識を正しく理解・記憶して、テストに正解して得点するのをよしとする、という方針とは大きく違う学習のあり方だ。」という指摘が非常に刺さる。簡単に言うが難しいと、著者も認める。「正解や教師が念頭に置いている答えに一致することを目標とする傾向がある」「短絡的な「合理的思考」やいわゆる「コスパ」重視の発想や嗜好と極めて相性が悪い」だろうと。そのため、ともに試行錯誤できる少人数学習が効果的だと提言するが、なかなか難しそうである。
論理、この厄介なもの / 渕野昌
ラストを飾るにふさわしい難解な(ようにみえる)論理学教育についての考察。本当はもっと深く知って欲しいが、「計算機文化」と著者が名付けるプログラマーやシステムエンジニアのコミュニティにおける文化と、そうではない人々の共通言語として、少なくとも「かつ」「または」「ならば」の論理的性質くらいは知っておくべきだろうと譲歩する。
教育される側のニーズとして「役に立たないものは勉強したくない」「分からないことは教えて欲しくない」という、学習能力を超える事柄を教えられたときのストレスの大きさを示唆する発言の根底には、「現代、あるいは未来の時代の要求を考えると、教えるべき事柄、つまり学習者に理解してもらいたい事柄が、平均的な学習者の、「分からないことを教えられた」ときのストレスの限界を超えたものになってしまっている」という状況があるという認識は、複雑化する社会・科学の影響として胸に落ちた。