狂騒のパリと芸術家
狂騒の20年代。それは何もアメリカだけに当てはまる言葉ではない。
フランス・パリでも狂騒の時代を経て今がある。
フランスでは、狂騒の時代をLes Années Folles(レ・ザネ・フォル)と言い、第一次世界大戦直後の開放感と好景気で浮かれていた。
しかし、一方では戦後の混乱(トラウマ)を抱え無秩序が混在した時代だったのだろう。
そんな時代でも芸術という文化は廃れることなく、寧ろ芸術が開花した時代だったのではないだろうか。
1920年代のパリで活動していた芸術家達を総称してエコール・ド・パリ(パリ派の意)と呼ばれていた。
1928年に画廊で開催された「エコール・ド・パリ展」がその語源と言われている。
特質した流派(印象派等)を指す言葉ではなくモンマルトルやモンパルナス等パリで活動していた芸術家達を意味していた。
フランスにあるモンパルナスという地区は当時、家賃や物価が安かったりアパートの敷地内にアトリエを建てるのが流行していたことから多数の知識人や芸術家が集まった。
モンパルナスには芸術家達のコミュニティが出来上がり、世界中から芸術家達が集まっていった。
パプロ・ピカソ、マルセル・デュシャン、アルベルト・ジャコメッティ、サルバドール・ダリ、ジャン・コクトー、ジョアン・ミロ、マン・レイ、ジュール・パスキン、日本人では藤田嗣治、岡本太郎等、名前を挙げればキリが無い。それ程、芸術家達にとって重要な地区だったのだろう。
因みに、日本ではアトリエ村文化が栄えていたのが池袋だったことから、池袋モンパルナスと密かに呼ばれていた時代(1938年頃)が戦前にはあった。
モンパルナスにあるカフェには夜な夜な芸術家達が集まり溜まり場となった。そこでは、芸術についての談義があり、アイデアが生まれる場でもあったのだろう。
カフェにいること事態が芸術活動の一環と言ってもいいだろう。
(Source:感性の時代屋 Vol.1)
中でも、ラ・ロトンドというカフェのオーナーは芸術家達への理解が深かったようで、談義が熱くなって殴り合いのケンカになっても警察を呼ばず、酒に潰れて寝てしまっても起きるまで寝かせてあげていた。
飲み代が払えない場合にはお金ができるまで彼らの作品を預かることで酒を飲ませてあげていた。
もしかしたら、預かったまままだ世に出ていない有名な芸術家達の価値のある作品がそこには有るのかもしれない。
カフェが並ぶのと同じように、モンパルナスにはナイトクラブやキャバレーも並んでいた。
以前投稿した記事にも紹介したジョセフィン・ベイカーやキキと呼ばれたアリス・プラン(キキとはギリシャ語でアリスの意)が出演していた。
(Source:NAVER)
キキは、当時集まっていた芸術家達とも親交が深く、ヌードモデルをつとめることもあった。
パリ滞在中、レオナール・フジタと呼ばれた藤田嗣治のモデルをつとめた寝室の裸婦キキという作品は目にしたことのある人もいるのでは。
(Source:Les Pérégrinations de Joce)
そんなキキと最も多く活動していたのはマン・レイで恋愛関係にもあった。
彼女をモデルに撮影されたマン・レイのポートレートは数百枚あると言われ、中でも有名なのが「アングルのヴァイオリン」と1926年のVOGUEに掲載された「白と黒」がある。
(Source:モンパルナスのキキ・・・伝説の美女)
当時の芸術家1人1人を挙げて書いていくとキリが無くなってしまうので気になる人はミッドナイトインパリという映画を見てみるといいだろう。
劇中、当時を生きた芸術に携わった人物が多数登場する。
フィッツジェラルドと妻のゼルダ、ジャン・コクトー、パプロ・ピカソ、アーネスト・ヘミングウェイ、サルバドール・ダリ、マン・レイ等、枚挙に暇がない。
そんな狂騒のパリの時代も長く続く事はなく1929年の大恐慌の影響を受け終演を迎え、翌年には芸術市場は暴落してしまった。
同時期に芸術家達はパリを離れ始め、第二次世界大戦の開始と共にアメリカ(ニューヨーク)を芸術の中心として見据えて移動したことで本当の意味での終焉となったのだろう。