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介護はテクニックだけでは解決できないことはある。その「仕方ない」を解決するため知識や技術が生まれている
高齢者虐待という社会問題がある。
厚生労働省の調査結果(令和3年度)によると、虐待に至った理由の第1位は「知識・技術等の不足」とのこと。多くの人は「疲労やストレス」と思われるだろうが、これは第2位である。
介護に関する知識や技術などがないため、自分が目のあたりにしている介護という現実にどう対処して良いか分からず、それが疲労やストレスにつながると考えても良いかもしれない。
逆に言えば、知識や技術などのスキルがあれば、疲労やストレスが軽減されて虐待防止につながるということでもある。
これは一般家庭の話だけではない。仕事としての介護現場でも同じだ。
実際、ベテランと呼ばれる介護スタッフでも、肉体に負担のかかる介助をしていたり、高齢者が嫌がっても仕方ない介助をしていることが珍しくない。
そのベテランのやり方を見て、中堅者や新人スタッフも同じようにすることから、腰痛など肉体を負傷したり、介護対象である高齢者が介助に応じなくなったり、そして介護者自身がイライラや悲しみといったメンタルを病む。
その結果の1つのカタチとして虐待行為につながる。
だからこそ、知識や技術を身につけることによってボディメカニズムに即した介助により、介護する側も受ける側も負担のない状態をする必要がある。
また、認知症などの(失礼ながら)尋常ではない行動に対して「ああ、これは認知症としての〇〇行動かも」と理論を持つことができれば、いちいち感情的になることも減少できる。それは間接的かつ将来的に虐待防止にもつながるとのだ。
しかし、知識や技術といった理屈通りにいかない現実もある。
それは、やはり介護は人間を相手にしているからだ。
先日の話だが、認知症が進行しつつある利用者のトイレ介助をしていたとき、便座から車椅子への移乗中、その利用者が急に力を入れたことから車椅子が大きく傾き、危うく床に落下しかけた。
これまではボディメカニズムと本人に合わせたコミュニケーションをとりながら、お互いに負担のない移乗ができていた。しかし、移乗中という事故になりやすい状況下で利用者の中で急に「スイッチ」が入ったらしい。
利用者の体に力が入ったことからバランスと重心が崩れ、そのまま床に落下しそうになったところを何とか支えたわけだが、何度持ち直そうにも「スイッチ」が入りっぱなしになって「体勢を立て直す⇒また力を入れる⇒落下しそうになる」を繰り返したことから、このままいくと私の足腰が耐え切れなくなると判断して、もう力業(ちからわざ)で無理くり車椅子に乗せた。
上記でお伝えした知識や技術なんて無視した、完全な原始的なやり方だ。
しかし、それしかなかったし結果としてそれで良かったと思っている。
と言うのも、何とか利用者を車椅子に乗せた後、しばらく私は腰が捻じ曲がったような痛みで体を動かせなくなったからだ。もしも、あのまま粘っていたら利用者ともども落下して事故になっていたかもしれない。
何だか言い訳のようなエピソードであるが、この件からも分かるように、知識や技術ではどうにもならず、無理やりな力業でやらざるをえないことは、介護現場ではあるのだ。
どんなに「この人はこういう人だ」と分かっていても、どんなに「この方は認知症の傾向としてこういうことがある」と頭では理解していても、本件のような「スイッチ」が急に入ることもある。これは知識や技術があっても想定することはできない。
また、介護しているのもまた人間なわけだから、どんなに知識や技術があっても、コンディションやシチュエーションによってスキルをフルに発揮しきれないことだってある。そのようなときは原始的で知識も技術もすっ飛ばした力業になってしまう。
それは傍から見れば虐待行為のようにも見えるが、だからと言って介護者の肉体を壊してしまうと、それこそ介護を要する高齢者への支援ができなくなってしまったり、共倒れのような事故だって起こりかねない。
――― 「仕方ない」と言えばそうなのかもしれない。
しかし、この「仕方ない」が数多にあるからこそ、その「仕方ない」を解決するために知識や技術が生み出されているというのも事実だ。
この「仕方ない」はゼロにすることはできないだろう。しかし、「仕方ない」を減らそうとする姿勢もまた、高齢者虐待の防止ににつながるのではないだろうか?
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。