「質の高い介護」とは何か?
たまに「質の高い介護」という言葉を見かける。
それは介護サービス事業所の運営指針や行政の通知などで「質の高い介護を行うにあたり~」といった感じで使われる。
そして、介護業界では質の高い介護を目指して、各分野が専門性をもって様々な取り組みを行っている。
――― ところで、「質の高い介護」とは何だろう?
この言葉は当たり前すぎて気にしてこなかったが、最近ふと疑問を抱いた。そして私自身の中で、この「質の高い介護」というものが定義されていないことに気づいた。
――― 介護スタッフのスキルが高いことだろうか?
――― 利用者の満足度が高いことだろうか?
――― 健全な事業運営ができていることだろうか?
――― レクや社会活動に積極的な事業所のことだろうか?
――― 利用者の心身の状態が向上することだろうか?
う~ん、どれもそれっぽいし、そうでもない感じがする。
・・・というわけで、考えてみることにした。
この手の話をするときに大切なことは、着目すべきは「あり方」か「結果」なのかである。
これらは少し前からプロセス評価とかアウトカム評価とか使われているが、言わんとしているところは同じである。
介護従事者の視点で考えると「あり方」が焦点となるが、利用者を視点に考えると「結果」になる。
そのため、どちらかを決めないと「質の高い介護」は定義できなくなるので、ここでは質の高い介護を提供するための「あり方」つまり介護従事者の視点で話を進める。
また、予めお伝えしておくと「質の高い介護」については答えなんてない。
介護業界で統一化なんてできない、事業所および個々によっても意見が割れることになる概念だと思うので、本記事ではあくまで私の個人的な考えであることをご了承いただきたい。
そのうえで、いきなり結論を述べる。
「質の高い介護」とは、
介護者の存在を感じさせない介護
・・・だと思う。
介護を行っていても、介護者は風景に同化しているかのようになる。介護が確かに行われていても、目に見えるのは利用者たる高齢者のみ、という状況を当たり前とするのだ。
これは介護の地位を上げる動きと逆行するかもしれないし、”やりがい”といったものが謳われている時代に反発されるかもしれない
しかし、介護者は主役ではない。あくまで黒子である。
介護者が決して表に出る必要はない。しかし、介護サービスによって利用者の生活はちゃんと成立し、心身状態がそこそこ維持できている。それに対して利用者も関係者も「何ともなくて安心した」と笑い合える。
そのような光景で眺めて、サービスを終えた介護者はその場を去っていく。そして事業所に戻ったら作業報告をしたり、次回以降につなげる話をする。
何だか無味無臭でドライな感じだが、このようなあり方が「質の高い介護」ではないかと思う。
利用者や関係者が「何ともなくて安心した」と言っていただけるためには、介護者のスキルだって必要だし、そこに至るまでには協議や検討などの試行錯誤だってある。無駄なコストもあろう。
しかし、それを特に利用者本人にわざわざ教える必要はない。せいぜい、介護者がのやっていることの一部をご家族や関係者が把握していれば十分だ。
また、「もっと●●さんに何かしてあげたい」と張り切る介護者もいるが、これは「質の高い介護」に歪みを与えると思う。それは「質」ではなく「量」を追求してしまっているからだ。
それは実行する介護者側も負担になってしまうし、受け取る側の利用者も重荷になってしまう。
「質の高い介護」とは、「過不足なく」という絶妙なバランスが必要だ。
せっかく「質の高い介護」をしているのに、「もっと」を追求してしまうことで「質の高い介護」ではなくなってしまうのはもったいない。
言い換えると、「もっとやってあげたい」という気持ちを抑えることも「質の高い介護」にとっては必要な心構えと言える。
介護だって注目されたいという気持ちはあるかもしれないが、あくまで黒子であることを忘れてはいけない。
――― 何だか味気ない話をお伝えしたが、個人的には「縁の下の力持ち」「陰の立役者」みたいなスタンスが好きである。だから、「質の高い介護」
に対して本記事のような考え方になったのだろう。
さて、みなさんが思う「質の高い介護」とは何だろう?
もちろん、答えはない。
しかし、たまに個人あるいは事業所で「自分たちにとって『質の高い介護』って何だろう?」と考えてみるのも面白いかもしれない。
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?