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生きるうえでニュースによる情報はさほど重要ではない。むしろ、観ないほうが色々と捗る

テレビもネットも含めて、ニュースというものを視聴しなくなって5年以上が経過する。

ニュースを観なくなって困ったことはない。むしろ、どうでもいい情報に不快感を抱くことが少なくなって、精神的に良いと思っているくらいだ。

もちろん、仕事に関することや気象情報くらいは目を通す。それは生きるうえで最低限必要だからだ。

しかし、それ以外は自分が興味を抱いたことを除いて、情報収集といって無闇にニュースに飛びつくことはしない。

ニュースを見るならば、垂れ流すような受動的な姿勢ではなく、自分にとって必要なタイミングで自分が主体となって入手する。

このほうが時間的にも効率的である。必要な情報を確認したら「はい終わり」できるので、そのまま余計な情報に脱線して時間が過ぎるということも少ない。



上記で「どうでもいい情報に不快感を抱く」と書いたが、実際、ニュースを見たところで事故や事件、不穏や政治・経済情報、それに対する好き勝手なコメント・・・ネガティブな気分にしかならない情報ばかりだ。

これらの情報ばかりに触れているから、世の中の人たちはネガティブになりやすくなっているのではないかと思ってしまう。

別に「ネガティブな情報は規制しろ」とまでは言わないが、何となくメディアはこの手の情報を無意味かつ長時間流すことで、国民の不安を煽っていると邪推してしまうことがある。

また、有名人の自死、殺人事件、交通事故などが報道されると、一定の範囲内で類似の事件が発生しやすくなるいう統計もある。
発信する内容は最低限にとどめて、無意味な引き延ばしはしないほうが良いのではないだろうか。

せめて専門外の人たちが、したり顔でコメントすることをやめたほうが良いと思う。この手の人たちを真似して、インターネット上でコメンテイタのような罵詈雑言を吐くようになることは減らせると思う。



このようなことを思うのは、意図せずニュースを見る機会があるからだ。

特に介護施設で勤務していると、利用者とテレビを視聴する場面がある。

そのたびに「これを報道して一体何の意味があるのだろう」と思うことが多い。確かに社会情勢を伝えることは大切である。

しかし、受動的にニュースをずっと見ていると、まるで思考を奪われているような錯覚を抱く。価値観を押し付けられている気分になる。

おそらく、ニュースという媒体が一方的に情報を伝えることから、その内容について「この出来事はこういうことかな?」と視聴者が熟考する間(ま)がないからだと思う。

そのため、私は本質的な意味で情報を得るならば、ニュースよりも本という媒体のほうが有益だと思う。本ならば自分のタイミングで情報を追うことができるため、じっくり考えることができる。

断片的な情報で良し悪しを判断したり、情報に振り回されないようにするためには、人間は思考する時間が必要である。

それは副次的に、急いで結論を出して間違った判断をしたり、他人の何気ない言葉に傷ついたりするといったメンタル予防にもなると思う。



「情報のシャワーを浴びる」という考え方をする人もいるが、人間にはキャパシティというものがある。また、たくさんの情報を得たところで活用しきれないだろう。

扱いきれないほどの情報を無闇にたくさん集めても、そのほとんどはネガティブなことで陰鬱な気分になってしまうことは誰もが気づいているはずだ。

本当の意味で情報を活用するためにも、自分の心を保つためにも、私たちは自分にとって必要な情報を選別したほうが良いと思う。


――― とりあえず、私のようにニュース見なくてもそれなりに生きている人がいるんだな、くらいに思っていただければ幸いである。



ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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