大人への階段

車道は車が行き交っていて、歩道は、何人もの人が通り過ぎていく。世界は、目まぐるしくまわっている。いまも、たぶん、きっと。

「あついなぁ」

わたしは、漫画を片手に呟いた。
どんなに世界が慌ただしく動いていても、わたしの周りは静かだ。

この、実家の居間の畳に寝転がって、縁側から吹く風を感じるのがすきだ。うるさく鳴り止まないセミの声すらも、バックメロディのようにすんなりと耳に入ってくる。
髪の毛は前髪も含めて、頭の上でお団子にして、ブラトップ付きのキャミソールに辛うじてパンツが隠れるくらいの長さの麻生地のショートパンツ。もちろん、すっぴん。
「20歳過ぎた女の子が、みっともないわね」と、母親は呆れたようにキッチンにいってしまった。

額をしたたる汗をぬぐいながら、時計を見た。午後12時をまわっていた。たしか、10時過ぎに朝ごはんか昼ごはんかわからないご飯を食べてから、ずっとゴロゴロしている。もう、2時間近くも経っていた。
いつのまにか、涼しい風も生暖かさが混じってきた。そろそろ、扇風機の出番だ。
暑さを認識すると、途端にさっきまで心地よかったセミの声が耳障りに聞こえてきた。

ミンミンミンミンミン・・・・・

一時停止ボタンがあれば、とっくに押している。せめて、音量ボタンが欲しい。

ミンミンミンミンミン・・・ピロン

セミの声に混じって、LINEのメッセージを受信する音が鳴った。
地元に帰省していることは、親しい友人にしか知らせていない。

だれだろう?

はてなマークを大量に脳内に生産させながら、スマホを手にした。
通知画面に、中学の同級生の名前が浮かんでいた。連絡をとるのは、成人式以来、5年ぶり。SNSでは繋がっていて、彼女はいま、結婚をして子供がいる。

『やっほー。久しぶり。夏休み、帰省してる?もし明日ひまなら、中学のときの同級生でバーベキューをする予定だけど来ない?メンバーも写真で送るね』

メッセージの後、『写真を送信しました』の通知。
わたしは、急いで写真を開いた。15人程の名前が羅列していた。わたしは、上から順に目を通した。
心臓がドクッドクッ、と大きな音を立てて鳴っていた。このまま壊れてしまうのではないか、と心配になるほど。

あれ、ない?

わたしは、もう一度最初から、丁寧に一人一人の名前を見た。
でも、探していた名前は、何度見てもなかった。
急に緊張が解けて、代わりに全身の力が抜けて動けなくなるほど、落胆した。
わたしは、拍子抜けして、気力を失ったまま、扇風機をオンにした。風量は、強。
ブワァーーーと力強い音を立てて羽がまわる。わたしは、外気と同じ生暖かい風を顔面に受けた。
こんな日は、キンキンに冷えたビールを飲みたくなる。

初めて飲んだビールは苦かった。
20歳になった夏だった。
こんなにまずい飲み物を、なんでみんな飲んでいるのか理解ができなかった。当時の彼氏に言ったら、笑いながらわたしの頭を撫でた。彼は、わたしよりも10個も年上だった。

「ビールのおいしさと恋のつらさ、どっちの苦味も知ったら大人になった証拠さ」

ふーん、とだけ頷いて、どっちも知りたくないけど早く大人にはなりたいな、と思ったのを覚えている。
そのときの彼氏には、ビールのほかに、高級なフレンチとか、高級な旅館とか、学生には手に届かないほど大人に見えることを、たくさん教えてもらった。
でも、恋のつらさは、教われなかった。彼といると、自分がひどく子供に思えて、いつもがんばって背伸びをしていた。慣れないテロテロしたブラウスを着たり歩きにくいヒールを履いたりして、彼の気が変わらないように、捨てられないように必死だった。

別れ話をしたのは、わたしからだった。成人式で地元の友達と話して、等身大で会話をできることに安心した。初恋の人と5年ぶりの再会をして、中学のときと同じで、ミスチルの話で盛り上がった。
「この間のライブいった?」
「もちろん。新曲聴いたときは鳥肌が立ったよ」
「innocent worldのときの櫻井さんがいつもと違う歌い方で感動した」
中学生に戻ったみたいに、すんなりと話ができた。楽しくて、うれしくて、このままこの時間が続いてほしいと願った。
その夜、彼氏と電話をして、心が冷めたことに気づいた。味気のない会話。
なんで、わざわざ自分から疲れているんだろう。ふと、そんな残酷な思いが浮かんだ。一度思うと、二度と忘れられなくなるほど、わたしは昔から頑固だった。
別れを切り出したら、彼氏は慌てて理由を尋ねた。わたしは、なんて言ったら納得してもらえるのかわからなくて、黙り込んでしまった。すると、彼氏は豹変したように冷たい声で「男ができたのか?」と言った。
脳裏に、初恋の彼の顔が浮かんだ。
「違うよ」
「じゃあ、なんで突然別れるなんていうわけ?きょう、成人式だったよな?昔の男にでも会ったんだろ?」
半分違うけど、半分正解。わたしは、また言葉に詰まった。彼氏は、やっぱりな、とため息をついた。
「ごめんなさい」
彼氏は、微かに笑った。どんな顔をしているのか、電話越しにわかる。わかるから、わたしはもっと申し訳ない気持ちになった。
「わかった。こんなおじさんに付き合ってくれてありがとうな。楽しかったよ。じゃあ」
そう言って、彼氏は電話を切った。後悔に似た気持ちが心に漂う。でも、もう戻れないし、戻ろうとも感じなかったのが、悲しい。
それよりも、わたしの心がすでに初恋の人に移ってしまったことに気づいて、もっと悲しくなった。無情にも、脳内にミスチルの『Over』が再生された。

初恋の彼とは、中学生のときに両思いだった。ふたりともミスチルのファンで、話が盛り上がったのがきっかけで仲良くなった。
好きって気づいてからは、お互いに気持ちを探り合って、恥ずかしくて、周りの目がこわくて、想いをつげられずにいた。
彼もわたしのことをすきだったと知ったのは、高校生になってから。高校も一緒になった女子が、中学のとき彼と仲が良くて、直接聞いたことがあると話してくれた。
それを聞いて、いてもたってもいられなくなって、連絡を取ろうとしたけど、緊張して、とうとうできなかった。新しい生活に慣れると、彼のことはたまに思い出すくらいになった。
だから、成人式で再会したときに、一瞬であの頃の気持ちが戻ってきて、戸惑った。
わたしは、彼をすきだという気持ちを忘れたんじゃなくて蓋をしてきれいにしまっていたのだと気づいた。
だから、今度こそこの気持ちをぶつけよう、と思って、大学3年生の夏休み、彼に連絡をした。

『久しぶり。夏休み、帰省するならご飯にいかない?』

返事は、すぐにあった。

『いいよ』

その後に、うさぎが頭の上で丸をつくっているスタンプがきた。かわいい、と胸がきゅんと苦しくなる。
やったー、と叫び出しそうな気持ちを必死に抑えて、何度も何度も何度も、彼からの返信を眺めていた。
心臓が、高架下にいるときのようにうるさく、振動していた。

バクバクバクバクバク・・・・・

クーラーの温度を一度下げた。体がお風呂上がりのように、ほんのりと火照っていた。

デート当日。20分も前に待ち合わせ場所に到着した。
白のノースリーブブラウスに、黄色のフレアスカート。この日のために、洋服を新調した。
ヘアアレンジは、ネットで初心者でもできる簡単なものに挑戦した。彼に、少しでもかわいいって思われたかった。
彼を待つ時間すらも楽しかった。

「ごめん、待った?」

彼は、息を切らせて現れた。白地に青のボーダーが入ったシャツの襟をパタパタと動かして汗を飛ばす。
「全然、待ってないよ。行こうか」
予約していた居酒屋に着くと、彼は生ビールを頼んだ。わたしはまだビールは飲めなくて、カシスオレンジを注文した。
「ビールを飲めるなんて、大人だね」
乾杯したあとに、一気にビールを飲んだ彼に向かって言った。
「おいしさは、まだよくわかんないけどな」
彼は、まゆげを下げて、困ったような顔をして笑った。「そっか、そうなんだね」とわたしもつられて笑った。それを聞いて、安心していた。
彼といると穏やかで、幸せな気持ちになれた。
きょう、必ず想いを伝えると、何度も自分の心に確かめて誓っていた。

「じゃあ、そろそろ帰ろうか」と、彼が立ち上がって、お会計をして、店の外に出るまでは。
帰り道も同じだから、その道中で絶対に言う。胸がずっと鳴り止まなくて、いつもはカクテル2杯で酔ってしまうのに、きょうは5杯飲んでも、ちっとも酔えなかった。

もうすぐ、わたしの家の近くで、告白しようと思っていた地点に着いたとき、彼の携帯が鳴った。
「ちょっと、ごめん」と携帯をとった彼の声を聞いて、わたしの誓いはもろくも崩れ去った。
明らかに、相手は彼女だった。あんなに優しくて愛のこもった彼の声を、わたしは記憶の中でしか知らない。
彼の電話が終わるのを待って、わたしは「家、すぐそこだから!きょうはありがとう。またね」と一息に言うと、一度も振り返らずに家まで歩いた。彼の顔を見たら、泣き出しそうだった。

初めて、恋のつらさを知った。
わたしは、今度こそ、二度と出てこれないくらい深く、この想いを封印して、鍵をかけた。
人づてに、彼がその彼女とは別れていまはフリーなんだと知った。
もう一度、と考えたこともあるけど、ずっと心にいる忘れられない人が人生に一人いるのも悪くないかもな、と思ってやめた。もし、付き合うことになっていまの彼のことを知っていくのが、こわいとも感じていた。

彼とは、その後一度も会っていない。SNSのフォローもしていないため、近況も知らない。

耳が、スマホから流していた音楽を捉えた。
ミスチルの『君がいた夏』だった。
胸を締め付けられるような想いに浸りながら、手に持った缶ビールを勢いよく開けた。
バーベキューは、欠席で返信をした。地元の友達は結婚と出産ブームで、自分の旦那か子ども自慢になることが目に見えていたし、もし彼の近況が話題になったら、知りたいけど、知るのがこわかった。

『また夏が終わる もうさよならだね 時は二人を引き離していく・・・』

櫻井さんの優しくて穏やかな歌声が心を落ち着かせる。
バックコーラスに混じって、鈴虫の声が夜の闇から聞こえてきた。

ああ、もうすぐ夏が終わる。

夏が終われば、わたしは26歳の誕生日を迎える。中学を卒業してから10年の時が流れた。
わたしは、思い切りビールを口に含んだ。ビールのおいしさを知ったのがいつからか、思い出せなかった。

#あの夏に乾杯
#夏の思い出
#本物の恋
#大人の味

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