「高度の平凡さ」 1.出会い
「高度の平凡さ」とは「日常的・当たり前にできることの水準が高いこと」です。私は、これが個人と組織の強さの根本だと考えています。
このシリーズでは、このコトバとの出会いから始め、このコトバの個人と組織にとっての意義を説き、さらに、具体的な実践方法を語りたいと考えています。
第1回の今回は、私と「高度の平凡さ」というコトバの出会いです。
私が「高度の平凡さ」というコトバに初めて出会ったのは、今から40年近く前、大岡昇平の『レイテ戦記』(中公文庫)を読んでいたときです。このコトバは、同書の「九 海戦」に登場します。原文のまま引用します。
フィールドとは、アメリカの民間歴史家ジェームス・A・フィールドJrのことです。彼はフィリピンのレイテ島沖で日米両海軍が激突したレイテ沖海戦に航空参謀として参戦、終戦後に海戦に参加した日本軍人を聴取し『レイテ湾の日本艦隊』を著しました。大岡はこの本を参照しているのです。
なお、フィールドはレイテ沖海戦の代わりに、陸軍のレイテ島上での地上戦も含めた「捷一号作戦」という名称を用いています。
フィールドの意見はレイテ沖海戦を読み解く上で重要な切り口で、組織論の名著として評価の高い、野中 郁次郎 他『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(中公文庫)も、「一章 5 レイテ海戦―自己認識の失敗」で取り上げています(中公文庫2021 P178~220)。
同書の内容を抜粋します(一部改変あり)。なお、同書は「高度の平凡性」というコトバを用いていますが、ここでは「高度の平凡さ」に統一します。
ここで、ひとつの疑問が浮かんできます。「全滅が織り込み済みの作戦が日常の思考の延長で成立しうるのか?」ということです。自らが間違いなく戦死するとわかっている戦闘を日ごろの訓練どおり粛々と遂行できる兵士などいるのか?
ところが、アジア太平洋戦争を戦った日本の兵士たちには、それが出来たのです。そのことは、大岡が「レイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書く」と宣言して書き上げたレイテ戦記を読めば明らかです。
また、上陸してきた米軍に日本軍を上回る損害を与えて全滅した硫黄島守備隊の戦闘も、そのことを物語っています。さらに神風特攻にいたっては、フィリピンで出撃400機以上のうち命中111機(命中率27.8%)、沖縄で出撃1,900機以上のうち命中133機(7%)を数え、これに加えてほぼ同数の至近突入を記録しているのです(数値は大岡『レイテ戦記』による)。
誤解のないように言います。私は、大日本帝国とその陸海軍が兵士に強いた戦い方は残酷、不仁であり、この国において二度と繰り返されてはならないと信じています。また、世界の他のどの国であろうと、その国民にこのような戦い方を強いることは許されないと考えています。
そもそも私は、「肉を割き、骨砕き、血をほとばしらせる」戦争というものを生理的に好みません。戦争は人間から攻撃性と暴力性を引き出し、人間を貶めるものであるとも考えています。
しかし、戦争が兵士の生命と国家の運命をかけて行われるものであるがために、個人・組織の能力の育成と発揮にとってヒントに富んでいることも否定できないのです。私は、そのような観点から戦争というものを捉えています。
この連載の目的は「高度の平凡さ」を平和な環境での個人と組織の活動に応用していくことですが、このコトバがレイテ沖海戦での日本海軍の敗因を解明するために登場したコトバである以上、レイテ沖海戦がどのような背景のもと、どのような戦略意図と作戦によって戦われたかに触れておく必要があると考えます。これが次回、第二回のテーマとなります。
〈「高度の平凡さ」/2. レイテ沖海戦/①戦略と作戦計画〉につづく
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