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「高度の平凡さ」 2.レイテ沖海戦 (1)①戦略と作戦計画

〈「高度の平凡さ」/1. 出会い〉からつづく

今回は、「高度の平凡さ」という言葉の原点となったレイテ沖海戦における日本海軍の戦略と作戦計画を見ていきます。

1.戦略とは


戦略は、次のように定義できます。

自分が将来達成したい姿を描き、それを達成するために自己の経営資源と自分が適応すべき経営環境とを関連付けた地図と計画のようなもの(沼上幹)

出典:ツドイカクヤ研究所『共通する「 中小企業の課題 」と未来|困難な局面を乗り越える具体策は?』
https://tsudoi-katsuyaku.com/strategies-for-small-businesses

したがって、戦争における戦略とは、次のように定義できます。

【自国のあるべき姿】を武力で実現するため自国の資源を自国が直面している国際環境に関連づける計画

第一次世界大戦で出現し第二次世界大戦でも引き継がれた「総力戦」では、軍事力だけでなく軍事力の裏付けとなる経済力と経済活動を支える国民生活のすべてが、戦争遂行のための資源となります。

1-1. 日本海軍の戦略


私は、太平洋戦争を戦っていた日本にとっての【自国のあるべき姿】は、「大東亜共栄圏のリーダー」だったと考えています。
ただし、「大東亜共栄圏」にはタテマエとホンネがあります。タテマエは欧米の植民地支配から脱したアジア諸国が共存共栄する空間であり、ホンネは日本が他のアジア諸国から天然資源を収奪する空間です。

日本海軍は、【ホンネの「大東亜共栄圏」】を【自国のあるべき姿】とする戦略を持っていました。太平洋の対岸に位置する大国である米国の【ホンネの「大東亜共栄圏」】への侵入を断固退ける戦略です。具体的には、太平洋を渡って来る米国艦隊を迎え撃って撃滅する戦略を練っていたのです。

しかし、日本海軍は米国に比べて天然資源が圧倒的に不足し工業力も劣る日本の現実を前に戦略を転換せざるを得なくなります。米国艦隊を迎え撃つのでなく日本艦隊が撃って出て米国海軍に打撃を与え米国の戦意を挫く戦略に切り替えたのです。この戦略転換に沿って実施されたのが真珠湾奇襲とミッドウェー海戦でした。

ところが、日本海軍はミッドウェー海戦で大敗し、主力空母4隻と多数の艦載機、そして真珠湾以来連戦連勝を重ねてきた優秀なパイロットの多数を失ってしまいます。これ以降、日本海軍の艦船建造とパイロット養成は、米国海軍から引き離される一方になります。
守勢に立たされた日本海軍は、その戦略をひとつの決戦で米国海軍に大勝して米国を和平交渉の場に引きずり出す戦略へと切り替えます。

ところで、日本陸軍にとっては、【ホンネの「大東亜共栄圏」】は朝鮮半島と中国東北部を起点に中国大陸内へと広がるものでした。ただし、この地域を支配するためには東南アジアの天然資源を手中に収めることが絶対に必要であり、陸軍は東南アジアに進出します。これによって東南アジアが【ホンネの「大東亜共栄圏」】に加わることになります。
米国陸海軍が東南アジアへの足がかりを求めて共同でレイテ島上陸作戦を始めたとき、この上陸部隊を撃退することは日本陸軍の至上命題となります。

東南アジアに天然資源を依存していたのは、海軍も同じでした。東南アジアを米軍に抑えられ資源を得られないような事態になったら、ひとつの決戦で米国に大勝することなど絶対に不可能になってしまいます。海軍にとっても、米軍のレイテ島上陸部隊を撃滅することは至上命題となったのです。

こうして、米軍のレイテ島上陸部隊を撃滅する日本軍の陸海共同作戦として「捷一号作戦」が発令され、この作戦の一環としてレイテ沖海戦が行われたのです。

1-2. 米国海軍の戦略


米国にとっての【自国のあるべき姿】は、「西へ西へとフロンティアを拡張し続けると同時に、世界の民主主義のリーダ―であり続ける国」でした。米国が太平洋を渡って【ホンネの「大東亜共栄圏」】を打ち砕けば、それはアジア諸国を軍国主義国家日本の支配から解放することにもつながるので、米国にとっては、日本を倒すことが【自国のあるべき姿】そのものだったとも言えます。

米国海軍の戦略は太平洋の制海権を確保し米国のアジアへの影響力拡大を助けることであり、この戦略は太平洋戦争中、一貫していました。大戦初期に日本海軍に押され艦船を多数失い続けていた時期も、戦略を転換することはありませんでした。米国海軍は自国の資源と工業力に自信があったのです。

ただ、米国海軍は戦略を遂行するための主要な手段を艦船から航空機に変更しました。大型戦艦が中心だった艦隊編成を空母中心に切り替えます。また、航空機を主体に戦う上で陸上にも航空基地を確保しなければなりません。このため、米国海軍においては、陸軍と共同で太平洋上の島々を占領しながら【タテマエの「大東亜共栄圏」】に攻め入っていく水陸両用作戦が中心となっていきます。レイテ沖海戦も、この島を占領するための水陸両用作戦を実施している中で発生したのです。

2.作戦計画(捷一号作戦)


ここでは、日本側の作戦計画についてだけ見ていきます。日本海軍の「高度な平凡さ」の欠如が浮き彫りになったのは、作戦計画が非常に高度で複雑だったからだからです。日本海軍の作戦計画は陸軍の戦闘と連動したものなので、作戦名としては海陸共同作戦の名称である「捷一号作戦」を用います。
「捷一号作戦」を遂行する過程で発生した海上決戦がレイテ沖海戦であるとご理解ください。

「捷一号作戦」の概略を下の図に示します。

捷一号作戦

1944年10月20日、米国陸軍はレイテ島に上陸を開始しました。島の中央部のレイテ湾には上陸部隊が必要とする弾薬・食糧などを積んだ大輸送船団が停泊し、この船団を日本海軍から守るためにレイテ湾の沖合に船団護衛A艦隊と船団護衛B艦隊が控えていました。さらに、東方海上には最新鋭の高速空母4隻を持つ米国海軍の主力艦隊が配置されていました。ただ、この主力艦隊の任務はレイテ島上陸部隊を掩護するが、日本の主力艦隊と決戦する機会があれば決戦を優先してよいというアイマイなものでした。このことが、レイテ沖海戦の推移に大きな影響を及ぼすことになります。

「捷一号作戦」における海軍の任務はレイテ湾に突入して輸送船団を撃滅することです。このために、日本海軍はオトリ作戦と殴り込み作戦を合体した巧妙な作戦を用意しました。

《オトリ作戦》
レイテ島東方海面に配置された米海軍主力は、レイテ湾に侵入する上で最大の障害なので、レイテ島から引き離す必要があります。そのために、航空母艦4隻ほかで構成された小沢艦隊が囮として北方から接近し、米海軍主力を引きつけます。

《殴り込み作戦》
米海軍主力が小沢艦隊を追って北に移動したあと、日本海軍の2つの艦隊が南北両方向からレイテ島に迫り、輸送船団護衛部隊の攻撃を振り切ってレイテ湾内に突入し輸送船団を撃滅します。
北から殴り込みをかけるのは巨大戦艦の大和と武蔵を中心とした強力な艦隊で、南から殴り込みをかけるのは旧式戦艦を中心とした小規模な西村艦隊という役割分担でした。もっとも、小規模な西村艦隊が船団護衛部隊を振り切ることは極めて難しいので、この艦隊は事実上はオトリであったと見ることもできます。

この作戦は、日本海軍にとってメリットとデメリットの両方を含んでいました。

《日本海軍にとってのメリット》
輸送船団を撃滅すれば、米軍の上陸部隊は補給を絶たれて日本陸軍に撃退される。日本は東南アジアの支配を維持でき、この地域から天然資源を収奪しつづけることができるこのことは、海軍の利益になる。東南アジアの石油がなければ艦隊を動かすことができず、東南アジアのボーキサイトがなければ戦闘機も作れない。

《日本海軍にとってのデメリット》
輸送船団には護衛艦隊がついている。これを振り切ってレイテ湾内に突入することは可能だが、輸送船団に向かって弾を撃ち尽くしたあとは護衛艦隊に一方的に攻撃され全滅してしまう。

大本営は、レイテ島上陸部隊を撃退するためなら、この作戦に投入する艦隊を全てすり潰しても構わないと考えていました。
当時の日本政府はレイテ島上陸部隊を撃滅すれば米国を和平交渉の場に引き出せると考えていたのではないかと、私は思っています。「捷一号作戦」が発令されたとき当時の小磯首相は「レイテ島は天王山」と絶叫したのですが、これは東南アジアの資源を確保できるかどうかの分かれ目の「天王山」という意味だけでなく、日米決戦の「天王山」という意味も含んでいたように感じるのです。

しかし、この作戦に参加する海軍将兵にとっては、そんな簡単に割り切れる話ではなかったでしょう。日本海軍は、日露戦争が終わってからは仮想敵国を米国に切り替え、太平洋を渡って来る米国海軍を艦隊決戦で撃滅することに向け軍備を整え訓練を積んできたのです。敵の艦隊ではなく輸送船団を全滅覚悟で攻撃する作戦は、日本海軍の自己認識と矛盾するものでした。そして、この矛盾がレイテ沖海戦の推移に大きな影響を及ぼすことになるのですが、それについては、次回見ていきます。

〈「高度の平凡さ」/3. レイテ沖海戦 ②海戦の推移〉につづく









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