ハンバーグの歴史その3 ホテルニューグランド/サリー・ワイルの「ハンバーグステーキ」はアメリカ料理(東洋経済オンライン記事補足)
東洋経済オンラインにおいて、ハンバーグの歴史記事(前編、後編)を公開しました。
例によって字数の関係で情報量を圧縮した記事となっているので、説明が足りない部分をnoteで補足していきます。
前編/その2では、大正時代以降アメリカ料理がブームとなり、アメリカ料理「ハンバーグ・ステーキ」を出す店(富士アイス、カフェテリア白木屋、エスキーモ、松本楼)が登場したことに言及しました。
大正時代から昭和時代はじめには、フランス料理を出していた店(ホテルニューグランド、カフェー・プランタン、凮月堂)においても、ハンバーグ・ステーキがメニューに登場するようになります。
ここで気をつけなければならないことは、フランス料理にもハンバーグ・ステーキによく似た料理が存在したということです。
従って、これらフランス料理を出す店のハンバーグについては、アメリカ料理なのか、フランス料理なのか、どちらなのかを判断する必要があります。
例えば横浜のホテルニューグランドで出されていたハンバーグは、アメリカ料理のハンバーグ・ステーキでした。
そう判断する理由は3つあります。
理由1:料理名が「ハンバーグ・ステーキ」
ホテルニューグランド初代総料理長サリー・ワイルに師事した馬場久の証言です。サリー・ワイルがつけた料理名はハンバーグ・ステーキ。
フランス料理にも、アメリカ料理ハンバーグ・ステーキによく似た料理が存在しますが、名前は「ハンバーグ・ステーキ」ではありません。
例えば、サリー・ワイルが影響を受けたエスコフィエの『Le Guide Culinaire』(第4版)におけるハンバーグの料理名は、Beefsteak à la Hambourgeoise=ビーフステイク・ア・ラ・アンブルジョワーズ(ビーフステーキ、ハンブルグ風)
フランスでは「h」を発音しません。従ってハンブルグHambourgは「ハンバーグ」ではなく「アンブー」と発音します。そしてフランス料理のハンバーグ料理の名前は「(材料名)のハンブルグ風」。
築地精養軒料理長の鈴本敏雄が書いた『仏蘭西料理献立書及調理法解説』のハンバーグ料理名は、Entrecôte à la Hambourg=アントルコート・ア・ラ・アンブー(アントルコートのハンブルグ風)
フランス料理人であったサリー・ワイルが、フランス料理の名前を捻じ曲げて、アメリカ料理の名前にすり替えるわけがありません。アメリカ料理であったからこそ、ハンバーグ・ステーキという料理名をつけたのです。
理由2:パン/パン粉を混ぜることによる増量
ワイルはハンバーグにパン/パン粉を混ぜ原価率を下げることで、フルコース(戦前はフルコースのことを定食といいました)全体のコストバランスをとりました。
この、パン/パン粉を混ぜることによる「かさ増し」は、アメリカのハンバーグ・ステーキに用いられる手法です。
外交官の妻としてアメリカ滞在経験のある料理研究家・飯田深雪は、アメリカでまだハンバーグ・ステーキが人気だった時代、1960年の『世界の家庭料理 5』において、次のように述べています。
必ずしも全ての料理書においてパン/パン粉を混ぜているわけではありませんが、例えば1904年のアメリカ海軍の料理書、『General Mess Manual and Cookbook for Use on Board Vessels of the United States Navy』のハンバーグ・ステーキレシピは、パンを混ぜて増量しています。
1915年のアメリカ料理書『A Text-book of Cooking』においても、パン粉や鶏卵を混ぜてもよい(Half a cupful of soft bread crumbs and 1 egg may be added to this meat mixture)とあります。
理由3:帝国ホテルを含め世界中のホテルがアメリカ料理を採用
サリー・ワイルはホテルニューグランドに、気軽にアラカルト(一品料理)を注文できる「グリルルーム」を導入します(中村雄昂『西洋料理人物語』)
この「グリルルーム」とは、grill roomという英語からもわかるとおり、イギリスやアメリカの食事施設。
つまりワイルはあえてイギリス/アメリカ流の食事施設を導入したわけです。
ホテルニューグランドよりも一足先、大正時代にグリルルームを導入した帝国ホテルでは、そこでアメリカ一品料理を提供していました。
これが昭和12年のメニューですが、英語表記が多く、ハンバーグ・ステーキによく似たアメリカ料理ソールズベリー・ステーキ (Salisbury Steak)も提供しています。他にも、アメリカンクラブサンドウィッチ、サンデーというアメリカ料理が提供されていました。
帝国ホテルはホテルニューグランドよりも一歩先んじて、アメリカ料理ブームに乗っていたのです。ちなみに帝国ホテル名物のパンケーキも、アメリカ料理です。
そして帝国ホテルのような高級ホテルがアメリカ料理を出すというのは、当時の世界的なトレンドであり、常識的なことでした。
作家の岡本かの子は、漫画家の夫岡本一平、のちに画家となる息子の岡本太郎、そしてかの子の愛人である若い男性2人とともに、1929(昭和4)年から1932年にかけて長期の欧米旅行にでかけます。
かの子によると道中のホテル、客船、列車食堂の食事は、フランス、イギリス、アメリカ3国の混合料理が通例でした。
「天皇の料理番」として有名な秋山徳蔵は華族会館、築地精養軒、東洋軒といった当時の一流西洋料理店で修行、その後フランスで本場のフレンチを学んだ後に、天皇の料理番すなわち大膳寮厨司長を長く務めることとなります。
大正12年に著した『仏蘭西料理全書』の自序において、秋山は日本の西洋料理の現状を次のようにとらえています。
帝国ホテルやホテルニューグランドがアメリカのホテル施設=グリルルームを導入し、アメリカ料理ソールズベリー・ステーキ/ハンバーグ・ステーキを出すことは、当時としては当たり前の慣行だったのです。
さて、フランス料理を出していたとされる銀座のカフェー・プランタンにおいても、ハンバーグ・ステーキを提供していました。創業者の息子河原崎国太郎の証言。
ハヤシライスはイギリス料理Hashed Beefが日本化した料理。
『にっぽん洋食物語』の河原崎国太郎の証言によると、カフェー・プランタンではアメリカ料理のクラブハウス・サンドウィッチも名物でした。フランス料理専門店というわけではなかったようです。
雑誌『青鞜』大正2年12月号のプランタン広告においてアメリカ料理の「ハンバグステキサンドウ井ツチ」=ハンバーガーが宣伝されていることからも、カフェー・プランタンのハンバーグステーキは、アメリカ料理のハンバーグ・ステーキだったと思われます。
作家の三宅艶子は銀座のフランス料理店凮月堂で「ハンバーグステーキ」を食べていますが、この情報だけではアメリカ料理なのかフランス料理なのか判断しかねます。
いずれにせよ戦前の外食店におけるハンバーグ料理の多くは、フランス料理ではなく、アメリカ料理のハンバーグ・ステーキだったのです。
このことは、料理書におけるハンバーグレシピからもわかります。アメリカ料理の普及と並行して、家庭向けの料理書や婦人雑誌にも、アメリカ料理「ハンバーグ・ステーキ」のレシピが、頻繁に登場するようになるのです。
次回は、ハンバーグの歴史その4 戦前のアメリカにおけるハンバーグ・ステーキの特徴(前編)です