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新卒2年目でCCOになるまでのお話

さて、めでたくさわくんはCCOに就任することになった。現在、新卒2年目、入社当時はクリエイティブのクの字も知らないひよっこオブひよっこ。クリエイティブ修行で入社したはずが、こんなキャリアになるなんてわいも1mmも思っていなかったのである。さて、ではなぜさわくんが2年目でCCOになることができたのか、事実ベースでさわくんがやってきたことを説明しようと思う。これを読めば、何をすれば最速出世ができるのかわかるかもしれない。知らんけど。

ちなみにCCOとは?については下記の記事をどうぞ。


自己紹介:さわくんとは何者か?

大前提として、さわくんは一体全体誰なんだと言うことを一応説明しておこうと思う。

中高6年間引きこもり生活。その後一念発起し、偏差値18から1年で早稲田大学教育学部に現役合格。学生時代に延べ3000人以上の人々にコーチングを提供。そこでの経験を元に中高生向けの探究学習教材を出版、多数の中高へ導入する。その後、ランニングホームラン株式会社に新卒入社。オウンドメディア、ブランディングメソッド、就活事業など数々の自社事業を立ち上げ新卒2年目にしてCCOに就任。プライベートでは12歳年上の嫁と12歳の娘と100人シェアハウスでカオスに生活。自身のコンセプトは「天上天下唯我独尊」。この世全ての人々のクリエイティビティを愛し、快放して回るのが人生の趣味。

こんな感じの経歴である。この経歴を見ていただければ分かる通り、本当にクリエイティブについてはほとんど触れてこなかった人生であった。そんなさわくんがどんな2年間を過ごしたか、紹介していこう。

内定前:社員全員が反対する中、内定をいただく。

そもそもさわくんが就活を始めたのは休学2年目の限界大学生をしていた9月ごろからだった。当時は、「起業家になるぞ!」と意気込んで色々やってみるもののその尽くが失敗。親からは「もう流石に休学費用はださない」と言われて絶体絶命。それでも会社に入ることを想像できなかった私は、卒業後もインターンetc.で食いつなごうと思っていた。

が、色々あってシェアハウスで出会った嫁と結婚。当時10歳の娘、そして嫁。二人を養うにあたって流石に、フルグラを3食食って生きてるこの状態は抜け出さねばならぬ。そう決意をして就活を開始。何やろうかと迷っていた際、とある社長に「さわくんのやりたいことはブランディングを磨くと近づくかもよ」と言われ、「ふむ。。。ブランディングとな?よくわからんが探してみよう!!」

と、wantedlyで片っ端からブランディングで検索をかけて出てきた企業をぽちぽち。ただ、当然、クリエイターでもない人間がしかも9月というほぼ就活も終わりの時期に申し込んでいるわけで。連絡はほとんど来ない。

やっぱ、あかんかぁ、詰んだかも知らん。。。

と思ってた矢先、

なんとこんな連絡が。いきなり社長と話せるとは、これはチャンスの極みではなかろうか。。。。と言うことで、秒速で面談を承諾。面談の内容はあんまり覚えていないが、さわくんが当時事業化しようとしていた、空想世界の中で自分の深層心理に迫っていく「Immersive Novel Game」について詳しく説明しつつ、人間や社会の闇がどうこうとオタク特有の早口で喋っていた気がする。(そもそも、wantedlyのプロフィールも「人の闇と醜さが好きです」と言う謎の文章からスタートしていたと思う。ほんとよく、声かけてくださった社長よ。)

ちなみにこの時点で社長としては「内定」だったそうな。

そして、選考課題や面接をいくつかこなしランニングホームランに内定するに至る。が、後から聞いた話、

「本当にこの子採るんですか?」
「ひろゆきみたいで嫌いです。」
「僕は少なくとも育てられません。」

など社長以外はブーイングの嵐だったそう。最終的に、社長が直々に育てると言うことで内定を出すに至ったそうな。(捨て猫を飼うか飼わないかを親と論争しているかのような内容である😇)

ちなみにこんな感じで、内定の通知をいただきますた。

入社前:いきなり社長に直談判、大赤字を垂れ流す。

と言うことで、ランニングホームランに入社が確定。早速、内定者インターンとして働き始めることになる。最初に業務として依頼されたのは「自社のウェブマーケをやってほしい」と言う内容。「はて?ウェブマーケでござるか。。」とやったことない私はきょとんとしつつ、最初の仕事なので意気込んで色々とマーケの知識とかを収集しつつ自社のマーケに取り組み始めたのだが。。。

当時の売り込んでほしいLPを見せてもらったところ、
「むむ?これはこのLPのままマーケをやっていいのか?」
というところがちらほらと察知。かつ、当時は第二創業期真っ盛り、MVVを決めようと自社で自社の未来についてディスカッションしていたのだが、
「むむ?この方向性でいいのか?なんか本質ついてないぞ?そしてそれがLPに如実に出ているぞ?」
ということを生意気にも察知したさわくんは、「自社マーケの方向性を探る初回のmtg」にて合計56pにも及ぶ提案書を提出。(ちなみに終わった後3日後くらいに「延長戦」と称して再提案までした。)

ブランディング会社にまだ入社してもないクソガキが「フルブランディングの提案」を持ち込むと言う生意気ここに極まれりな行動を実行。会議は「ポカーン」として終了。クソガキは鼻息荒く「僕の提案どうでしたか????」と聞いて回るカオスな状況。今振り返ると、本当に無知ゆえの怖いもの知らずだったと思う。

後から社長に、「さわくんのあの提案は、錆びたナイフでわきっぱらをグサグサされるような提案だったのでもうちょっとマイルドにして欲しかった。」と言われることになるが。意外と「LPの作り直しから始めよう」ということに。

そして作ったLPがこれ。

いろんなブランディング会社のLPを分析し、最適解を出したつもりだったものの成果はほぼゼロ。(これを通して代理店と一社関係ができたくらい)

制作費100万、広告費もおそらく100万ほど。200万ほど大赤字を垂れ流すことになる。ここまで、足を引っ張ってしかいないのである。

1年目春:オウンドメディアを破壊する。

さわくんの愚行はまだまだ続く。直談判をして200万を溶かした上で、正式に入社。最初にやったことは「当時開発していたオウンドメディアをぶっ壊す」
ことだった。

またもや破壊である。

当時のオウンドメディア「WHO WE ARE.」様々な企業のMVVがリストアップされているMVV特化のウィキペディアのようなものだった。

入社してすぐにこのメディアの執筆をまず仕事として任されたわけであるが。
「そもそもこのメディアは需要がない!!」
とまたしてもクソ生意気に暴れ始め、方々に直談判。

色々あって、承諾されWWAをぶっ壊し、新しいオウンドメディアを作ることになる。


と言うことで、ここでの提案書によって生み出されたのが弊社の現在のオウンドメディアI am CONCEPT.だったわけである。

現在、弊社は「コンセプトメイクカンパニー」を名乗るほどコンセプトに特化した会社になろうとしている。提案書を振り返ってみると、この当時からこの方向性をクソガキは示唆していたようである。

1年目夏:森に移住し、成果ゼロで帰ってくる。

さて、と言うことで破壊と創造をした上でさわくんは森へいくことになる。

当時の案件で、愛媛の限界集落にホテルを建設するぶっ飛んだプロジェクトが走っており。弊社社長がそこで「なんかしてほしい」と召集を受け、そこにさわくんも連れて行かれたのであった。その上で「めっちゃいいところだから試しに移住しつつ提案を深めたいであります!」とまたもやクソ生意気な提案をしたところ、社長がこれを承諾。3ヶ月ほど住んでる古民家ではWi-Fiがほぼ通らない環境で、働くことになる。

ちなみに、提案は大こけした結果、収益は社長が提案したコピー代金のみ。またもや金の無駄遣いをするさわくんなのであった。

1年目秋:自社のブランディングメソッドを作る。

と言うことでここまで全くもっていいことをしてないさわくん。ようやくここら辺でバリューを発揮し始めることになる。

森の山奥から帰ってくる1ヶ月ほど前のことであった。なんと社長から「自社のブランディングメソッドを考えてほしい。」と言われることになる。「はて?ブランディングを学びに来たのだが?」と思ったところを飲み込みつつ、「かしこまりました!」と3秒で返事。色々と自社の方々にヒアリングを重ねつつ、「ずっと制作会社が伴走せずともブランディングで携わった会社が自走してほしい」と言う思いを抽出。そこから、自分がこれまで培ってきたコーチングなどの心理学メソッドを色々と詰め込みできたのがこれ、

弊社のフラグシップ商品である「自走ブランディング」であった。
サービスを作るだけではなく、ここでしれっと「ランニングホームランブランディング計画」を進め始める。「テストプレイです」と称して、がっつりランニングホームランの詰まりを紐解き始めたのであった。(詳しく説明すると長くなるのだが、ブランディングを依頼する時は大体、自社の中で何かがこじれており、そのこじれを「MVV」などを立てることで解消しようとするものなのである。つまり根本は言葉を作ることではなく、法人格の深層心理でこじれている部分のオペ手術をしている感覚に近いのである。)

色々と改革が終了するのは2年目の秋ごろになってしまうのだが、ここでのブランディングによって組織風土含めかなり抜本的に改革する契機となっていく。

どんな感じに変わったのかは上に書いてあるのでよかったら見てほしい。

1年目冬:クリエイティブ業界の就活を改革し始める。

続いて始めたのが、「クリエイターの就活改革」であった。新卒がなんで業界変えるねんと言う感じであるが聞いてほしい。と言うのも、さわくんは色々あってランニングホームランの人事権をこの段階でほぼ一人で行使する立場にあった。

自分で言うのもなんであるが弊社の採用は死ぬほど厳しい。

詳しくはこちらのツイートを見てほしいが、本当に人生を5週くらいしていないと採用基準に達さないようになっている。(上記の採用フローを設計したのもさわくん)

と言うことで、1年目の採用はとても難航することになっていた。ただ、さわくんは思ったのである。

「これ、自社だけでやるよりも業界の問題にしてみんな巻き込んだ方がウィンウィンでは?」

と言う発想によって、「クリエイティブ業界の就活構造を変えよう!」と言うプロジェクトを賛同する企業の方々で立ち上げることとなる。

ちなみに、最初は本当に有志で始まったのであるが今では学校なども巻き込んだビックプロジェクト化し始めている。就活生に限らず、クリエイターのキャリア全般を改革していくことに今後は発展していくだろう。

2年目春:クリエイター界隈でブイブイ言い始める。

また、さわくんが入社した際は「コピーライター兼ディレクター」として採用されたのだが、この段階で「コピーライターとディレクターの才」がないことがわかってくる。

結果社長から「さわくんプロデューサーの方が向いてるのでは?」と言われ、「確かに、なんかプロジェクト生む方がわい強そう」と言うことで役職がチェンジ。

ただ弊社にプロデューサーはゼロ人。どうやってプロデューサとしての立ち振る舞いを学ぶべきかと思ってたところにfacebook広告でこんな講座が流れてくる。

GOが主催している THE CREATIVE ACADEMY がちょうどビジネスプロデューサー向けの講座を始めていたのであった。見つけた時には締切まであと数時間。
社長に交渉したところ経費を出してくれることになったので、申し込みをする。

クリエイティブもブランディングもプロデュースもピヨピヨの状態で大丈夫か?と思っていたのだが、これがなんとめっちゃ無双することになったのであった。

こんな感じで優勝しまくった上に、ツイートもなんかバズることになったわけである。ここのあたりから自社での風当たりが少し優しくなったような気がする。

ちなみに、この段階までさわくんの売り上げはほぼゼロ。
だったのだが、優勝し始めたくらいからコンペをボロ勝ちしていきここまで垂れ流していた赤字をすごい勢いで回収し始めるに至る。
(ちなみにさわくんが携わったコンペは今の所、無敗✌️)

2年目夏:自走ブランディングが大型受注、自社の最高受注額を2倍ほど更新する。

色々と運がこの頃から良くなってくる。THE CREATIVE ACADEMYの同期であり、最終チーム課題で同じチームメンバーだった方からとある飲食ベンチャーのフルブランディングの依頼を受けたのであった。当時、まだ自走ブランディングは受注はほぼなかった段階。(数千万するのである)

だったのだが、ヒアリングにヒアリングを重ね、社長と何度も対話し受注に至ることになる。(まだブランディングプロジェクトの真っ最中なので詳細は割愛)

受注はあくまで始まりであり、最終的な結果にコミットすることが何よりも大事であるが、実際、びっくりするほどのお金を動かすに至ったわけであった。

そしてこの段階くらいから、これまで仕込んでいたプロジェクトが様々に開花。オウンドメディアしかり、就活改革しかり少しづつ界隈に着目されるようになる。また、会社の改革もだいぶ進み「制作会社」からの脱皮を完了し始めたのもこの段階。

この辺りからクソガキが名刺交換する時、やってることと肩書きがミスマッチの極みみたいになってきたのであった。

なので社長に「なんかツヨツヨな肩書きがほしいっす!」とお願いしてみたところ、「じゃあなんか役職つけるか!」と言う話になり。

色々と肩書きをどうするかすったもんだした上で、夏の終わり頃に「CCO(chief concept officer)」に就任することが決定するに至ったのであった。

まとめ:新卒2年目で重役に就任する秘訣

改めて振り返ってみると本当に様々な偶然に恵まれたと思う。と言うよりも、そもそも1年目の赤字垂れ流し迷惑クソ野郎の段階を信じて寛容に受け止めた社長がだいぶ偉大だったと思う。他の社員が反対していたこともあったので、内心かなりヒヤヒヤだったのではないだろうか。

そうした偶然も踏まえつつ、それだと1ミリも参考にならないので頑張って就任の要因を書いていこうと思う。

①違和感を我慢しない

さわくんが生きてきた25年間、基本的にその時感じた違和感が間違いだったことはないと思う。むしろ変にその違和感を我慢したり、捻じ曲げて伝えたりした時の方が大ゴケしていたのではないだろうか。なので「違和感は基本正しい」ただし、「違和感を感じた際にぶん投げたり捻じ曲げることなく、その違和感に関して徹底的に内省し、汲み取り、どうすればその違和感を解消できるか考える」ことは必要だと思う。感じたことに間違いはないが、アウトプットに基本間違いがあるのだ。

②とにかくめっちゃ動く

なんかすごい普通なこと書いてしまった。のだが、マジでこれに尽きる。ストーリー的に冗長になるので割愛しているが、ここに書いたこと以外にも例えば、無限に交流会に行ったり、昔の知人のプロジェクトを3つくらい掛け持ちで手伝ったり、嫁をアーティストにするのに躍起になったりなどなど、何もしてなかった日が自分の両手の指の数より少ないような気がする。と言うくらいまでとにかくなんかやってた。これによって偶然を引き当てる確率を爆上げしたように思う。

③描いた世界をなんとなく意識して全部意思決定する

これまた長くなるので詳しくは下のnoteをみてほしいが、さわくんは結構色々考えている。(こちらは弊社の社員が毎週書いてる交換日記のnote)

大学生の頃とか思考するだけで血反吐を吐けるくらい考えに考えて、どんな世界がこの後人類が幸せになるんだろうなぁ。と何百回、何千回と思考実験をしていたように思う。で、大事なのはこれをクソ真面目に実行するとそれはそれで身動きが取れなくなるし、かといって何も考えないと全然違う方向にいくと言うことだと思う。頭の中を空っぽにしてとにかく動きつつも、なんとなーく意思決定のベクトルを描いている「コンセプチュアルな世界」のイメージに近づけるように全部「ついで」でいい感じの出来事がくる確率を重ねがけで爆上げしていく。と、スピード出世できる気がする。

④バイブスが合う企業に入る

①〜②は正直参考にならないと思うのだがこの、③はマジで参考になると思う。私が1年目でやった行為、これ社長とバイブスが合わずにやっていたのならば秒速で異端としてして排斥されていたことだろう。入って間もないぽっと出のポット野郎が「え、会社の方向違くないですか?」ともの申してきた暁にはお説教を喰らって終わるのが普通。その未来にならなかったのは社長とバイブスが本当に合ったからだと思う。会社の描く理想と僕の描く理想がおそらく99.99%くらい合致していたのだ。なので、ここまで変なことをやってても許容されたのだと思う。(もちろん、社長の寛容な人格にもだいぶ起因する)
なので、このnoteを読んで「よし!私も物申して無茶苦茶なことするぜ!」とやる気になったあなたは一回深呼吸した上で、自分と会社のバイブスがあっているかどうか考えてみてほしい。ほんまにすごい合致しているとそれでも思えたのならやってよし、なんか微妙に違うかもしらんと思った場合は転職をしないとマジでただの痛いやつになるので気をつけたほうがいいと思う。

⑤①〜④のアドバイスを全て忘却する

基本この「〇〇すれば成功するマニュアル」はクソであるとさわくんは思っている。あらゆる変数が絡み合った結果、この方法で成功するのであって、ここだけやっても意味ないのである。これはあらゆる自己啓発本、成功者本に通づるが成功者バイアスでどや顔しているだけでほんま意味ないのだ。(ブーメラン) とにかくやろうと思ってもできん時はできんし、「やる」が先行するとキャラとずれて病んでしまったりもする。ただし、人生のスター状態みたいなものはこれまで数々の人をメンタリングし、自分もそこに突入し始めた(気がする)立場から思うに、スター状態になると勝手に①〜④に結果的になっているというのが真実なのだと思う。なので、スター状態を目指すのではなくスター状態になった、もしくはなりかけの片鱗を感じ取った時にそれを自覚することが大事なのだと思う。そうすれば、スター状態を無駄にすることなくそのフェーズで思いっきり命を燃やすことができるのだ。知らんけど。

以上がさわくん流、2年で爆速で出世する方法と経験談であった。あまり間に受けず、エンタメとして楽しんでもらえたのなら幸いである。

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