目的がなくていい、というのは馬にニンジンだ。
noteを書く目的について、たびたび書いている。でも大体の内容は、何のために書いているのかわからないとか、書きたいことがなくても、書くことがないということを書けばいいとか、そんなことばかりだ。こんな文章は宇宙の星屑のようにごまんとあるだろう。noteに限らずネットにはたくさん転がっている拙文だ。天の河のように綺麗な輝きの一つになれるなら、それは大層素敵なことだが、そんなロマンチックなものではない。この記事を読んでくれている方には申し訳なく思う。
今だって目的がなくたっていいと大見出しをつけ、自分に言い聞かせてなんとか記事を書いている。でもやっぱり何のためにしているのか分からなくなって、悩んで、悩んで、悩みの大気圏を突破したと思ったら、自分が人生で何をしたいのかも分からないという、これまた宇宙みたいな壮大な悩みに包まれる。こんな感じでしばらく漫然とした日々を過ごしている。
過去の記事を遡ると、どうやら私には2つの精神状態(モード)があるらしい。
一つは、「生きるって何だ」「人生って何だ」という内省モード。
もう一つは、日常の面白いと思った出来事などを書くアウトプットモード。
(内省モードも内省をアウトプットしているということについては目を瞑ってほしい。いいネーミングが浮かばなかったのだ。)
これら二つの間を定期的に行き来している。
多分アンパンマンでいうところのロールパンナみたいな感じだ。
自分と同じような気持ちでnoteを書いている人も、0ではないだろうけど、目的を持って書いている人の方が多く感じる。みんな明確な志を持っていてすごいなと思う。そのパッションはどこからやってくるのか教えてほしい。
私はとにかく継続することが苦手だ。新しいことに手を出しては、ちょっと出来ただけで満足してやめてしまう。何かを獲得したり、達成したりすることはない。ゲームのチュートリアルを終えて、もしくはそれさえも中断して満足してしまうように。
すぐに満足感でいっぱいになることは、ある意味メリットになるのかもしれないが、大抵のことが中途半端になる。
中途半端であることは、半端者ということであって、つまりは何者にもなり得ない。
揺るがない目的があれば長く続けられると思っているのかもしれない。
目的がなくていいと言い聞かせるのは、モチベーションがない自分を何とか奮い立たせるための対症療法にすぎない。
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