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ショービジネスの屑どもたちへ:ジュディ・ガーランドの悲劇


MGMがヒットを狙った『オズの魔法使』

これは、名作映画『オズの魔法使』で当時17才だったジュディ・ガーランドが歌う「虹の彼方に」の映像です。この曲は1939年に映画が公開されてから今にいたるまで世界中に愛されています。

1930年代当時、すでにアメリカには絶大な人気を誇る子役がいました。シャーリー・テンプルです。

天使のイメージで売り出された彼女は恐慌以降のアメリカ人の心を癒し、10才にも満たない彼女は、当時ハリウッドを牛耳る映画会社ビックファイブの一角をなす20世紀FOXに莫大な利益をもたらしました。

また、同時期にディズニー社の『白雪姫』(1937)が大ヒットを飛ばします。

これら、シャーリー・テンプルの子役人気と白雪姫の童話ヒットに目を付けた20世紀FOXと同じくビッグファイブのひとつである映画会社MGMが、まさしく時代の流れをなぞり、ヒットを狙いすまして起用したのがジュディ・ガーランドであり、製作したのが『オズの魔法使』でした。

ジュディ・ガーランドがMGMと13才の頃、7年契約を結んでから4年、ついにこの映画でジュディ・ガーランドは誰もが知るスターになったのでした。

彼女のために朝5時半からファンたちは列をなし、その親しみやすさからガールネクストドア(隣に住んでいそうなホッとできる女の子)として愛されました。

ジュディ・ガーランドとバズビー・バークリー

ジュディ・ガーランドが出演する映画のほとんどを監督したのはバズビー・バークリーという振付師でした。

バズビー・バークリーは、1930年代前半にワーナー・ブラザーズで数々の名作ミュージカル映画を監督、一世を風靡した振付師です。

1927年に『ジャズ・シンガー』で世界で初めてミュージカル映画を製作し、まさにミュージカル映画のトップランナーであったワーナー・ブラザーズに振付師として所属。

『四十二番街』『フットライト・パレード』などで革新性の高い演出を取り入れ、ダンスの単なる撮影ではない、”ミュージカル映画”演出の礎を築いた人と言えます。

そんな彼が1930年代末、ワーナー・ブラザーズの次に活躍の場に選んだのがMGMでした。そして、MGMに移籍してから手掛けたのが、裏庭ミュージカルと呼ばれるジュディ・ガーランドのミュージカル映画だったのです。

MGMの軍白期を支えるジュディ

1940年代、第二次世界大戦がはじまるとMGMは数多くの看板スターを第二戦地に送り出すことになります。

そのなかには、風と共に去りぬのクラーク・ゲーブルや、アメリカの良心と呼ばれた国民的スター、ジェームズ・スチュアート、椿姫やブロードウェイ・メロディーシリーズで知られるロバート・テイラーもいました。

そんな看板スター不在のMGMを支えたのが他でもなく、まさにジュディ・ガーランドの映画だったのです。

こうしてMGMにとっては、無くてはならない存在となったジュディ・ガーランドは多忙を強いられることになります。

まだ10代で若い彼女の体型はなかなか安定しません。そこでMGMは、痩せ薬として覚醒剤を飲ませました。しかし、覚醒剤を飲まされたジュディは今度はなかなか眠れなくなってしまいます。そこでMGMはジュディに催眠薬も飲ませるようになりました。それだけではありません。食事も徹底的に管理され、スープチーズだけが与えられたとも言われています。

MGMはジュディのイメージを守るために、食事の時間すらも、ミッキー・ルーニー(ジュディと恋人同士だというイメージで売り出された)という俳優と同じ食卓に座らせ、そこでもまだカメラを向けコンテンツとして公開しました。

ジュディの誕生日パーティーのもニュース映画として残されています。しかし、この映像に出てくる友達は全てMGMが用意した子役であり、全ては台本通り撮影されたものでした。ジュディは私生活の多くを管理されていたのです。

また、MGMの社長だったルイ・B・メイヤーやミュージカル映画製作において強権を握っていたアーサー・フリードにはキャスティング・カウチ、すなわちキャスティング権を背景にセクシャルハラスメントを働いていたのではという噂がありました。もっといえばペドフェリアなのではないかという噂もありました。

実際に、いつもジュディの左胸に手を置き「ここから歌いなさい」と指導していたルイ・B・メイヤーに対しジュディが「メイヤーさん、こんなこともう二度としないで下さい。もう耐えられません」と言ったというエピソードがNHKのドキュメンタリー番組で紹介されていたのを見たことがあります。

ジュディ・ガーランドの契約破棄

ジュディ・ガーランドの映画『サマーストック』(1950)の中でも特に有名な”Get happy”のシーン、見事に絞られたスリムな体型で彼女は歌い踊っています。しかし、映画を全篇見れば一目瞭然ですが、ジュディがスリムなのは映画ではこのシーンだけです。

覚醒剤と催眠薬の常用と、アルコール依存症はすでにジュディの体をボロボロにしていました。ジュディは『サマーストック』撮影中に10キロ以上の体重の増減を経験、情緒不安定となり無断欠席を繰り返すようになっていました。

当時、バズビー・バークリー監督で『アニーの銃をとれ』という大ヒットミュージカルの映画化をすることになっていました。ジュディ・ガーランドはその主演として撮影を進めていました。

ジュディ・ガーランドは精神的に不安定ななかで撮影を続けます。そのなかで彼女は監督であるバズビー・バークリーに対し不平不満をまき散らちました。なんとか撮影を続行したいMGMはバズビー・バークリーを解雇します。しかし、それでもジュディは不安定な言動と薬物への依存を続け、自殺未遂も図ります。

もはや撮影続行不可能と判断したMGMはジュディを『アニーよ銃をとれ』の主役から降ろし、ついにジュディとの契約を破棄したのでした。要はクビにしたのです。

世間の反応とアーサー・フリードのパクリ

正直、英語もろくにできない私が当時の世間の反応を正確に把握することは出来ません。しかし、若いジュディの人生を散々搾取したあげくに捨てたMGMの重役、すなわちルイ・B・メイヤーやアーサー・フリードに多くの人が強い怒りを覚えたことは間違いないでしょう。

もし、ジュディがワーナーブラザースかパラマウント(すなわちビッグファイブのMGM以外の会社です)で働いていれば、こんなひどいことは起きなかったのではないか、きっとそう考えていた人も多かったのではないかと思います。

ジュディを捨てたあとのMGMは、ヨーロッパでバレリーナ(シド・チャリシーやレスリー・キャロン)をスカウトしたり、美人コンテストを開いたり(デイビー・レイノルズなど)、あるいは他映画会社からの再契約先として多く選ばれたこともあり(フレッド・アステア、アン・ミラーなど)、皆さんが良く知る50年代ミュージカル映画黄金期を作り上げます。

そんな時代に製作された『雨に唄えば』はまさしく、実は作詞家としての実績もあるアーサー・フリードに捧げられた映画でした。そのために、全曲アーサー・フリード作詞の曲で構成されました。

『雨に唄えば』を見てみますと”Make ’Em laugh”という曲が出てきます。この曲、ミュージカル映画ファンが見れば一目で気づくほど、メロディーも歌詞も映画『踊る海賊』でジュディが歌う”Be a clown”そっくりそのままです。

アーサー・フリードは本当はジュディのこの曲を使いたかったんですが、この曲はアーサー・フリードが作詞を手掛けた曲ではなかったんです。

『雨に唄えば』はアーサー・フリードに捧げる映画ですからアーサー・フリードは自分が作詞した曲であることにこだわったのでしょう。その結果ジュディの曲をパクったのだと思われます。

契約解除されたジュディ・ガーランドは知人の伝手を借り『スタア誕生』という映画を製作、再起をはかりますが失敗します。その後もテレビなどで歌手活動を続けますが、それもうまくいかなくなり、一生涯を通じてアルコール依存症に苦しめられました。そして、47才の若さで彼女は催眠薬の過剰摂取で人生を終えることになります。

ストーンウォール・インの近くで行われた彼女の葬儀には二万二千人のファンがかけつけたとされています。彼女の存在は世界中の迫害され苦しむマイノリティにとっては特別な存在であり続けていたのです。

世界のLGBT解放運動における転換点となったストーンウォール事件はジュディの葬儀が行われた翌日に発生していることから、ジュディの死が引き金となってストーンウォール事件が起きたという伝説は証拠こそありませんが多くの人に信じられています。そして今でもLGBTに連帯を示す証としてジュディの代表曲である虹の彼方ににちなみ、レインボーフラッグ🌈を掲げることが続けられています。

今も変わらないショービジネスの世界

ジュディを捨てた後、ミュージカル映画黄金時代を築いたMGMもその天下は長くは続きませんでした。

1961年に公開された『ウエストサイド物語』という全く新しいタイプのミュージカル映画の出現によりMGMのつくるミュージカル映画はいっきに古臭いものとなります。MGMは抱えていた多くの巨大スタジオをもはや維持できなくなり、その多くは廃墟となりました。

一方で、『ウエストサイド物語』に強く影響を受け新たなショービジネスを始めた男が日本にいました。ジャニー喜多川です。野球少年を連れ1962年有楽町の丸の内ピカデリーでウエストサイド物語を見たジャニー喜多川は、ミュージカルのように歌って踊るアメリカの舞台芸術を日本で作り上げたいという思いからジャニーズ事務所を設立します。

グループサウンズやロカビリーが人気だった日本にはまだ歌って踊れるスターはいませんでした。そこに目をつけたジャニーズ事務所は数多くのアイドルグループを世に送り出しました。そして、気が付けば日本の芸能界を牛耳る存在として君臨することになりました。ジャニー喜多川にもMGMの重役どもと同様の噂が公然と語られ続けていました。

ジャニー喜多川が死亡し最近になってようやく調査が実施されました。結果、数百名の被害者がいたことが判明しています。ジャニー喜多川が生きていたのはついこの間までのことです。ついこの間まで、その被害は日本中の人から見て見ぬフリをされていたのです。

ミュージカル映画の歴史は、『ウエストサイド物語』以降長らく盛り上がることはありませんでした。そんななか数十年ぶりに脚光を浴びたミュージカル映画が『シカゴ』でした。この映画の大ヒットがきっかけとなり2000年代再びミュージカル映画の歴史は息を吹き返すことになります。

『シカゴ』の主人公ロキシー・ハートはスターになることを願い、キャスティング権をちらつかせてきた夫以外の男と関係を持ちます。が、実際には彼にそんな力はなく、ただの嘘だったことがわかります。ただ一晩やりたかっただけなんですね。 裏切られた主人公は怒りに駆られ、彼を銃で撃ち殺すのでした。

ショービジネスの世界にうごめく屑を殺すシーンから始まる痛快な物語『シカゴ』はミュージカル映画としては数十年ぶりのアカデミー作品賞を獲得することになります。

それもそのはずです。『シカゴ』の製作総指揮はかの有名なハーヴェイ・ワインスタインだったのですから。『シカゴ』は彼の創設した映画会社「ミラマックス」のつくった映画だったのですから。アカデミー作品賞を獲得して当然です。当時のアカデミー賞における彼の影響力というのは凄まじいものがあったのですから。

もちろんこの記事に出てくるということは彼も屑なわけです。2017年、ワインスタインは、多くの社内の女性スタッフや女優、女優志願者に性的暴行と虐待を繰り返していたことが、複数の著名女優の告発から明らかとなったのでした。これも全くついこの間のことです。

ショービジネスとどのように向き合うか

ショービジネスには光の部分と陰の部分があるとよく言われます。そして多くの人が光の部分に魅せられ、人生の糧とし、推し活を通じて自らのアイデンティティにさえします。

そんな我々が陰の側面を知ってしまった時どのように考えればいいのでしょうか。ジャニー喜多川の問題が明るみになった際、ジャニーズ事務所の多くのファンが、被害者でもある告発者に対し過剰ともいえる攻撃をしていたのをはっきりと覚えています。その攻撃は今も続けられています。

ハーヴェイ・ワインスタインの問題が明るみになった際、あるいは松本人志(まだ疑惑の段階ではあるでしょうが)の問題が取りざたされた際も、多くの人が被害者(被害者かも知れない人)を攻撃しました。

加害者が、私たちの信じたい理想の夢の国を作り上げた張本人である以上、多くの人が彼らを否定することができず被害者側を攻撃してしまうのです。

ショービジネスという世界は、とてつもない大人数の幸せや夢のために、ごく少数の運の悪かった人々がとてつもない不幸を一人で背負い込むシステムになっています。それはまるでルグウィンの有名な小説、オメラスから歩み去る人々たちのオメラスのようです。

ジャニーズやアメリカの芸能界から強い影響を受けているKPOPにも陰があると言われています。実際に性犯罪で捕まるアイドルがKPOPには信じられないくらいいます。KPOPの世界にもジュディ・ガーランドがいて、今も苦しんでいるかもしれません。私たちはオメラスから歩み去るしかないのでしょうか。

参考


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