経験という無限の荒地にて(現代詩文庫61 北村太郎詩集の感想)
はじめに
『現代詩文庫61 北村太郎詩集』には、詩集『北村太郎詩集』『冬の当直』全篇と未刊詩篇(後に詩集『眠りの祈り』に収録)に加えて、評論等の散文が収録されている。
北村は、この本と同年に刊行された詩集『眠りの祈り』を境に、寡作から多作へと転じていく。つまりこの本は、北村が寡作の時期の作品がうまい具合にまとめられているものとなっている。以上のことを踏まえて、『現代詩文庫61 北村太郎詩集』に拠って、何かしらを書いていこうと思う。
本文
北村の詩は、その繊細さがよく取り上げられる。鮎川信夫は、北村のことを、「常住のうちにひろがる荒地的感性の世界は,彼によって最も繊細に捉えられ,最も見事に定着されているのである.」[1]と称している。これに関しては概ね同意を示すが、付け加えるかのように私は、北村の繊細さは悲観的ではないのではないかと感じた。北村の詩は、いい意味で暗さがなく、かつ絶望的でないのである。では、このような負の側面に傾かない繊細さはどこから生じてくるのか。それは、北村の詩の具体性からではないかと私は考える。
北村は、ある散文内で次のように記述している。
ここで、「天性」と「経験」について、少しでも明瞭にしておきたい。「天性」とは、いわゆる「感性」「感覚」であり、極めて私的なこと、すなわち、原理が不明である閉鎖的な現象のことである。対して「経験」に関して、北村は「無限の荒地」と喩えている。これは「私的な意味での経験」すなわち「体験」を表しているわけではなく、「知識」「情報」等のような、一定の具体性もしくは体系を有する「公的な経験」のことである。
北村が、以上のような「公的な経験」を利用していることを示すため、以下の詩の一部分を引用したものを一例として記す。
「苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)」「窒素」「水素」といった化学物質の名称が目立つ。これは、化学という北村以外の他者が体系化した「知識」である。つまり、北村は、少なくとも個人的とはいえない物事、すなわち「公的な経験」を駆使して詩を書いているといえるのではないだろうか。これは、以上の引用箇所に限った話では決してない。北村は、このように「経験という無限の荒地」と接続することによって、具体性を獲得することで、「天性」と均衡を保つことに成功している。
では、こうすることで何が嬉しくなるのか。それは、暗さや絶望を持たない繊細さを生みだすことが可能となることであると私は考える。というのも、「経験という無限の荒地」との接続は、閉鎖的な現象というブラックボックスの外側に矢印を向けることである。一方で、「天性」に従うことは、そのブラックボックスの内側に矢印を向けることである。したがって、前者に偏重すると繊細さは失われ、また後者に偏重するとなると、暗さや絶望がより色濃くなってしまう。
以上のことから、北村の主張する「技術」というものは、詩人の「天性」と「経験」の比率を1:1に近い値まで調整しようとする神経質の度合いとも言えるのではないだろうか。
おわりに
前述の「技術」は、決して北村固有のものではない。実際に田口犬男が、詩集『モー将軍』内で、「天性」と「経験」の均衡を保つことで、「非「絶望」のうた」[2]をうたうことに成功している(意識的かは分からないが)。
この「技術」は現在でも通用するものである。さらに「経験という無限の荒地」に接続することは、良しも悪しも情報の氾濫している現代において、北村の時代と比べて格段に容易となった。そのような意味では『現代詩文庫61 北村太郎詩集』は、初版が発行されて約半世紀経過しているが、現代においても堅固さを保っている。
参考文献
[1]「現代詩文庫61 北村太郎詩集」、思潮社、背表紙
[2]田口犬男、「モー将軍」、思潮社、帯文
初出
『北村太郎の研究 第一号」、詩の練習(若干の加筆をした)
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