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尾形亀之助の『現代詩文庫 1005 尾形亀之助詩集』の感想

はじめに

 本書には、詩集『色ガラスの街』『雨になる朝』『障子のある家』の三冊全篇が収録されている。だが、この感想文ではおもに『色ガラスの街』『雨になる朝』の詩篇について記述することにする。『障子のある家』は、詩集ではあるのだが、以下の引用文より、尾形が自らを紹介するために編まれたものであることが推測できる。

 私がこゝに最近二ヶ月間の作品を随所に加筆し又二三は改題をしたりしてまとめたのは、作品として読んでもらう(ママ)ためにではない。私の二人の子がもし君の父はと問はれて、それに答へなければならないことしか知らない場合、それは如何にも気の毒なことであるから、その時の参考に。同じ意味で父と母へ。もう一つに、いろいろと友情を示して呉れた友人へ、しやうのない奴だと思つてもらつてしも(ママ)うために。

『障子のある家』、「自序」(本書p.72 2018年7月1日第六刷収録)

 したがって、尾形の詩について何かしらを書く際、この詩集内の詩篇は、些か参考にしづらいものであると判断したため今回省くことにする。

本文

問 好きな詩人は?
答 好きな詩人、好きな役者? ドロ亀こと尾形亀
  之助、クズ鉄こと中浜鉄。

『現代詩文庫 77 正津勉詩集』(p.137)(思潮社、1982年8月1日初版第一刷) 

 いつだったかX(旧Twitter)で、「詩人にはナルシストが多い」というような文面を見かけたような気がする。この真偽の判定は一旦置いておくが、少なくとも尾形亀之助の詩の中にはナルシズムがないと断言してしまってもいいかもしれない。

 まずなんといっても尾形の詩には、一篇を構成する文字数が少ない傾向があり、なかには八文字で終わらせている詩があったりするほどである。しかし、短い詩を主に生みだしているのにもかかわらず、尾形はそのような形式に、なにかしら強いこだわりがあったわけではない。

 私の詩は短い。しかし短いのが自慢なのではない。自分としてはもう少し長い詩が書きたい。

『亜28号 (昭和2年3月発行)』、「私と詩」(本書p.114 2018年7月1日第六刷収録)

 以上の引用文から、尾形の詩の短さそのものに肯定的な態度はとっておらず、なんなら半ば短い詩しかつくれないことを自虐したりもしていたことが分かる。

 また、傷心の吐露による感傷的な雰囲気を醸し出していたわけでも、強い印象が内在する単語を用いた表現を多用していたわけでもない。語り口は、お洒落でも美しくとも、反対に下品なものでもなく、いたって素朴な印象を与えるものだ。かといって、抒情を排した、言葉の組み合わせを重視した技巧的なものでもない。
 本書に収録されている詩を読んで抱いた考えではあるのだが、尾形は、ある人間や事物が構成する日常風景の観察から得られた情報や、それによって生まれた感想のつぶやきに徹していたのではないだろうか。

 さしてこだわりがあるわけでもない短い形式を用いることで、観察から得た情報と感想をシンプルな語り口でつぶやく。これだけ聞くと、「尾形の詩は退屈なものである」と断定してしまう人もいるかもしれない。
 だが肝心の内容はどうだろうか。尾形の詩の面白さは、そのつぶやきの異様さにある。

 ここで、尾形の異様さが特にあらわれているだろう一篇を本書から引用したい。

十一月が鳥のやうな眼をしてゐる

『雨になる朝』、「十一月の電話」(本書p.67 2018年7月1日第六刷収録)

 無粋ではあるが、普通に考えたら「十一月」はそもそも太陽暦で年の第十一の月にあたるもので、「眼」なんてものはない。ましてや「鳥」のような「眼」なんてものは。

 さらに、尾形の同世代の詩人である北川冬彦の有名な一行詩を一篇引用する(優劣をつけることを目的とした引用でないことは留意していただきたい)。北川は、第一詩集である『三半規管喪失』と、その次回作にあたる『検温器と花』において、尾形のように短い詩の書き手であった。

軍港を内臓してゐる。

『検温器と花』、「馬」(ミスマル社、大正十五年十月発行)『日本の詩第18巻安西冬衛 高橋新吉 北川冬彦集』p.166(創美社、昭和54年5月4日第一刷発行)収録

 そもそもどうしてこの詩の題名が「馬」なのか。どこに馬の要素があるのか。北川も異様である。

 では、少なくとも異様なことを言っている点では共通している両篇の相違点はどこにあるのだろうか。それはなによりも用いられている語彙の性質や、構成にあるのではないだろうか。

 前者、すなわち尾形の詩では、「十一月」「鳥」「眼」と、用いられている語彙はいたって簡単なもので、なおかつ容易に関与することが可能な身近な、つまり日常的な事物の名称でもある。そして文体に違和がなく、シンプルなつくりである。
 対して後者、すなわち北川の詩では、「軍港」のような、日常と乖離した事象(一九二〇年代当時の環境や価値観にとっては日常的なのかもしれないが)に関する施設の名称の他に、「内臓」のような、少なくとも我が國では観察、接触が簡単ではない物体の名称が用いられていたりする。そしてなにより目立つのが内臓が動詞化されている箇所である。
 「とあるなにか」が「軍港」を「内臓してゐる」ということになるが、「内臓する」とは本当に一体なんなのか。「内蔵する」ならまだ合点がいくが実際のところそうではない。また仮に、軍港の担う重要な役割がまるで内臓のようであることを言いたかったのだとすれば、「軍港が内臓してゐる」のような構造をとらなければならない。だが実際には「〜を内臓してゐる」となっている。

 以上のことから、両者の詩の相違点を端的に述べるとするならば、北川のそれは『「異様な語彙と文体」で「異様な物事」が記述されたもの』であるのに対し、尾形のそれは『「普通な語彙と文体」で「異様な物事」が記述されたもの』である。
 このようなことを踏まえれば、結果的に「異様な物事」を記述した、もしくはしてしまったことにおいて共通していても、用いられている語彙や文体の性質によって、詩の印象が左右すると言えるのではないだろうか。尾形の詩の場合であると、素朴で単純な語彙と文体が、「つぶやき」という印象を決定づける要因となっており、そのようなことが異様さをより一層引き立てていて、面白さにつながっているのではないだろうか。

さいごに

 尾形の詩はナルシズムを持たない。それは素朴な、美的ではない形式によって書かれた観察の記録によるものである。このような姿勢が、ただでさえ事象の持つ異様さをより一層引き出しており、面白さを生んでいる。
 引用より、正津勉が尾形のことを「ドロ亀(スッポンのこと)」と称していた。少なくとも詩の世界では、一見魅力的でないものが凄まじい咬合力を持っていたりもするのだろう。

おまけ

 『現代詩文庫 1005 尾形亀之助詩集』は、現在絶版である。しかし青空文庫で、詩集『色ガラスの街』『雨になる朝』『障子のある家』が公開されている。以下URLを添付しておくのでこの機会に是非読んでいただきたい。

・色ガラスの街:https://www.aozora.gr.jp/cards/000874/files/3213.html
・雨になる朝:https://www.aozora.gr.jp/cards/000874/files/3396_9729.html
・障子のある家:https://www.aozora.gr.jp/cards/000874/files/3397_31175.html

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