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汚れた顔でこんにちは。
かっこよかった事務所がボロボロでね
1月からこっち、すごく大変な現場が3つも4つも重なって、そりゃあもう、大変でした。まあまだ落ち着いてないけど。
で、関東圏をウロウロする為の、もはやベースキャンプとして、ここの事務所は機能していました。
当たり前だけれども現場によってつくる物も違うから、その材料やその余りや、道具や養生やゴミがベースキャンプに溢れました。
で、ふと、じつと、自らの手を見たのです。
もちろん楽にならざり、で、ありながら、その汚れに気づいたのです。
あんな綺麗なものや、あんな華やかなものや、あんな楽しいものをつくりながら、僕の手は薄汚れていました。
思ったんだけどさ、「美しさ」も、「エネルギー」なんじゃないかと。
これは「カワイイは正義」とかいう意味ではないです。気付いたのは「美しさ」とその対岸にある汚れるもの、捨てられるものとの間に「エネルギー保存の法則」が成り立っていると思えたことなんです。
美しいものをつくるために、必ず僕の手は汚れる。
美しい字を書くために、筆は汚れる。
磁器をつくるために、薪は燃え煤は上がる。
切削すれば、削りカスはゴミと呼ばれる。
美しいものは研ぎ澄まされるけれども
でも汚れたもの、ゴミとされたものにも、相対的なエネルギーは残る。
汚れるものやゴミとされるものががなければ、
美しいものは生れないんじゃないかと。
幸福な我々の社会の残穢
すごく幸せなことに、僕ら多くはこんな綺麗な世の中に生きている。
排出するゴミや、自分から削り取られる排泄物や老廃物を気にせずにね。
でもそこには、何ものかの、それが人であったり機械であったり動物であったり微生物であったりの「汚れ請負」がいるからなんだよね。
僕らは汚れたものは見ない。けれども請負は、それをまた新しい「美しいものの種」「新しいエネルギー」にしてくれているんだ。
そう思うと、僕の手の汚れも、ただ通り過ぎるエネルギーだと感じることが出来る。
潔癖って言う人もいるけどさ、それは見てないだけなんだよ。自分の狭いルールの中で、そのエネルギーをゴミとみなして切り離しているだけだ。
綺麗なオフィスでデスクにはパソコンだけ。
そんなのうわずみだけで全部ではないんだ。
ありったけ使って、彼らが排除するものもその裏になければ
本当に美しいものは生れない。
僕は汚れた道具も汚れた事務所も汚れた手も、誇りに思えるよ。
美しいものをつくるために、こぼれ落ちながら必ず生まれるもの。
それに気づくことができて、いま本当によかったと思えるんです。
あ、もちろん、ちゃんとお掃除しますけど。