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真ん中を学ぶ

今朝のオンラインは、少しエラそうな事を言った。


上海にいた一年半の時間のうち、師父は僕にその10カ月を静功と太極拳の起勢〜攬雀尾〜単鞭に終始させた。


毎日六時間、来る日も来る日も繰り返させ、その度に力がはいっている。首を弛めて伸ばせ、胸を含んで気を腹に落とせ…………と、それこそ念仏のように指摘されつづけた。


バリバリと音が出る位元気だった二十代、この静かで内省的な稽古は、それこそ骨身に刻まれるような辛さがあった。


ある時、辛いばかりだった立禅の感覚がとても気持ちの良いものになった。すると、いきなり現れた師父は「まだまだ解っていない。更に立て。」と言って公園の木立の向こうへ消えて行った。


ある時など、八卦掌に進んだ兄弟弟子を横目に虚しくなった僕は「老師(この時はまだ拝師をしていなかった。)、私は留学生で時間がありません。一緒にはじめた仲間(中国人)は、もうあんなに色々学んでいるじゃないですか!」と訴えた。

すると師父は、厳しさと慈愛の混ざったような眼差しで思わぬことを語ってくれた。「そうだ、お前はわざわざ遠く海を越えて、貴重な時間とお金を掛けてここに学びに来た。彼らとお前は違う。私はお前にこれ(と言って地面に棒で丸を描き、その真ん中に一点を画して)を伝えているのだ。円の周りを幾ら回ったとしても、この一点が解らなければ全ては虚しいから……」


その時から、僕の稽古は「内功」という哲学を得、地味な修行にも「観受」という楽しみを見いだせるようになった。


そして小さな頃祖母が教えて呉れた「真の礼、真の動」というのも、この一点無くして現せない類のものではなかったか、と思い至り、道芸に東西の無いことも気づきはじめた。


あれから25年、師父の示された一点を探して日々を暮らし今に至る。

それはまた刻々自分の「さもしさ」「狡さ」との闘いとも言える。

動作が陰陽太和の一点から生まれなければ、それは只繕った、場当たりの動作でしかなく、たまたま当たった、たまたま効いた、というだけのことだ。

太極拳はこれを探すのに時間を掛ける。ゆっくりと滔々と、この筋道を導いて確かなものにしていく。

だから太極拳はとても内省的で、素晴らしいんだよ、と………朝の忙しいひと時、オンライン太極拳に参加するだけでも大変なのに、こういった(エラい)話を聞かされて、大層エラかったろうなあ……と反省しながら、たまには繰り言爺になってみる。

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