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「辞書」折口信夫

stand.fmに投稿する音声の第二弾として、青空文庫から折口信夫の「辞書」を選んだ。およそ六千字、ゆっくり読んで23分弱。

ここでは原稿に登場した辞書や人物などについての簡単な解説や、読んでいて思ったことを書いていきたい。

「現代の辞書の基になった辞書を思い浮かべてください」と言われて

『倭名類聚鈔』を頭に浮かべる。

「辞書」

という人はよほどの辞書マニアか、この随筆をご存知の方だろう。『倭名類聚鈔』は後の段落でも説明されているが、平安時代中期にみなもとのしたごうが編纂した。

倭名類聚抄 表紙

めくってみると、見出し語の下に確かに「兼名苑云……」や「文選詩云……」などと書いてある。さらに訓読みでどう読むかも書いてあるのだ。これについては別の記事を用意する。

この段落の最後、

ともかく、漢字を出して、それにあたる訓を考えている。これをもう少し歴史的に、一つの過程として考えると、言語を覚えるという、日本人が昔からもっている努力のあらわれということはいえる。

「辞書」折口信夫

という視点はとても興味深い。日本語は中国からの漢字を取り入れたのに加えて、漢字をくずしたり一部を取り出したりして独自の文字体系を作り上げた。漢字も元の音(おん)だけでなく訓という読みを加えている。そのため、現代中国語の単語を覚えるときは日本語の音訓が邪魔をすることがある。

歌ことば

『口遊』はアクセントがわからなかった。もっといえば、『倭名類聚鈔』『新撰字鏡』『伊呂波字類抄』、人名のアクセントもわからない。

新撰字鏡 表紙
伊呂波字類抄 一 表紙

漢字典

ここに『辞林』と『辞苑』という国語辞典が登場する。どちらも頭に「広」をつけたものの方が身近かもしれない。もっとも『広辞林』は現在では出版されていないが。

『辞林』は金沢庄三郎氏によって編纂され、1907年(明治40年)に三省堂から出版された。

もう一つの『辞苑』は新村出氏によって1935年(昭和10年)に博文堂から出版された。新村氏は『広辞苑』の編者としても知られている。

余談であるが、明治の初めに『語彙』という名の辞書の計画があった。あいう……の順に刊行される予定であったが、明治17年の「え」で頓挫してしまった。

辞書の二つの態度

歌人で「佐佐木」といえば超有名である(個人の感想です)。高校現代文の教科書を引っ張り出すと、御子息の佐佐木信綱氏の短歌

ぽっかりと月のぼる時森の家の寂しき顔は戸を閉ざしける

『新月』(大正1)所蔵

が、大岡信「折々のうた」の中で紹介されていた。

国語学者 山田孝雄よしお氏の家系は学者揃いである。山田忠雄氏は『新明解国語辞典』主幹、山田俊雄氏は『新潮国語辞典』編纂者、さらに山田明雄氏は『新明解国語辞典』編者、今野真二氏は日本語や国語辞典に関する著書を数多く出版されている。

 最後の段落に

「菊」の訓に「かはらをはぎ」などとある。

「辞書」折口信夫

この訓は知らなかった。確かに『倭名類聚鈔』には「菊」の和名として「可波良於波岐」と書いてある。

語源

新村出氏は先に登場した『辞苑』の編者である。またwikipediaによると、前項で短歌を紹介した佐佐木信綱氏とは終生の友人であったそうだ。

方言(〜まとめ)

clubhouseで朗読・ナレーションを教わるときにはもちろん標準語の発話を習うのだが、いかに自分が無自覚に言葉を発していたかということを否が応でも突きつけられる。関西出身であるので方言を話しているのは間違いないのであるが、語の一つ一つに至るまで標準語アクセントとは異なっているとなると、すべての単語のアクセントを調べたくなる。

この随筆は

日本の辞書は、いつまでたっても、糊と鋏との仕事ばかりだ。

「辞書」折口信夫

と締め括られている。この問題意識は、山田忠雄氏が持っていたものと通じるものがあると思う。山田氏は当時出版されていた国語辞典の多くが先の辞書の語釈をコピペしたものであり、語釈の誤りをも踏襲していると批判している。さて、現代の辞書は筆者の眼鏡にかなうものになっているだろうか。

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