西脇順三郎『Ambarvalia/旅人かへらず』(講談社文芸文庫)を読んで
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Ⅰ
西脇順三郎はシュールレアリスム(超現実主義)の理論的指導者らしいが、私はこの主義がよく分からない。
拙い理解によれば、非合理的なものや意識下の世界を追求する動き……らしい。そして、夢や内面や神秘に形を与えて表現することが象徴主義であるのに対して、超現実主義は形すらも与えず、「真の思考の動き」の表現を目指しているとか言われる。
とは言っても、作品を読んで見ると、これのどこが「真の思考の動き」なのか、訳が分からない。真に難解である。
ところで、なぜ私は超現実主義とそりが合わないのか。
新倉俊一はこう言っている。
”西脇順三郎の詩を読んで、よく「わからない」と歎くひとは、いたずら
に象徴的に意味をとろうとするからである。それはピカソの絵を見て、夢
中に意味を考えようとするのと同じで、見当はずれと言うほかない”
(『Ambarvalia/旅人かへらず』p206)
この文章からすれば、「いたずらに象徴的に意味をとろうと」し、「夢中に意味を考えようとする」から私は超現実的詩が「わからない」ということになる。では、この「意味をとる」というのはどういった営みであろうか。ここには明らかに理性の力が働いている。そして距離的な差がある。この点について「夢」と「現実」を引き合いに出しながら考えてみたい。
Ⅱ
「夢」 *ついて語る前に、我々は普段この言葉をどのような意味で使っているだろうか。それは大きく三つに分けられる。まず、「睡眠中にあたかも現実の経験であるかのように感じる一連の観念や心像」。次に、これから派生した「現実からはなれた空想や楽しい考え」(ex夢女子)。最後に「将来実現させたいと思っている事柄」(ex子供のころの夢)。
ここでは派生元である第一の意味について考える。我々は、この第一の意味を日常会話でどのように使っているだろうか。例えば「昨日見た夢が……」や「怖い夢を見た……」などのように使う。もしシュールレアリスムが則っている「夢」がこうした用法のみならば、この文学運動は浅はかと言わねばならない。なぜならそれは本当の「夢」ではないからだ。
柄谷行人は<夢の世界>と<夢の記憶>を分けて考えるべきであると言っている(『畏怖する人間』)。
すなわち<夢の世界>とは「夢を正に見ている最中のこと」である。<夢の記憶>とは「起きた後に整理された夢のこと」である。言うまでもないが、前者こそが本当の意味で「夢」である。しかし多くの人はその違いを意識しないばかりか、全てを<夢の記憶>に置き換えて語っている。ここには明らかに事後的なものを事前に持ち越してしまう倒錯がある。言い換えれば、我々が「夢」に対して意味を与えたり、あれこれ言えるのは<夢の記憶>においてであるのに、それをあたかも最初(つまり夢を見ている最中)から可能であるかのように考えている。
ではこの<夢の世界>では具体的に何が起こっているか。
Ⅲ
<夢の世界>と現実を区別するのは、世界に対しての距離である。
つまりこういうことだ。
我々は<夢の世界>においては、どんな突拍子もない偶然の継起でも、疑問・反省の余地なくただ受け入れるだけである。例えば、あなたが電気椅子に縛られ、後ろからティラノサウルスに襲われ、次の瞬間には電車に乗っている夢を見ても、あなたはただ<了解>するだけだ。ここにおいて疑いは喪失し、無限の肯定があるだけである。世界との距離が失われているがゆえに、<夢の世界>は否が応でもあなたに<了解>を迫る強制力をもつ。
この夢に対してあれこれ判断できるのは、この後の段階すなわち<夢の記憶>においてである。
一方、現実世界において我々は批判的意識を持ち、疑問を抱くことができる。そうして初めて我々は観察し、意味を解釈し、<理解>する。それは現実世界に対して距離を保てているからだ。
距離を保てる世界が現実であり、距離を取り去られた世界が<夢の世界>である。
であるならば、現実世界とは距離を持った<夢の世界>であり、<夢の世界>とは距離を失った現実世界である。
Ⅳ
回り道が長くなったが、以上を踏まえると「意味をとる」というのは、距離を持った側、つまり現実の行為である。私が先において「距離的な差がある」と言ったのはこういう意味においてである。そして新倉俊一は、「意味をとろうとする」から西脇順三郎の詩が難しく感じるのだと言っていた。であれば我々が超現実主義的詩を読む態度としては、詩世界との距離を失い、<理解(意味をとること)>をしようとするのではなく、ただ<了解>すればいいのではないか。
そして今回の詩は、否が応でも我々に<了解>を強制するような類のものである。
「汝の色は悲しみの貝殻の夜明け」とか、「トレミイは斯(か)くして耳に呼吸する」とかをいちいち<理解>しようとするのは時間の無駄である。
我々は<夢の世界>におけるが如くただ<了解>すれば良い、一文一単語によって想起される観念や心象を。
Ⅴ
最後に超現実主義の「超」の意味を解釈したい。普通は、夢や無意識の世界を現実の世界と結びつけ、現実を<超えた>新たな現実を創出しようとする運動、という意味から、つまり「現実を超える」という意味において超現実的であるとされるが、ここで敢えて逆の発想をしたい。
すなわち、「何かを超える」としてではなく、「何かに近すぎる」という意味においての<超>である。その意味において超現実とは、現実に近すぎる(つまり過剰な現実である)状態のことを示す。
とすると、我々は現実世界に対して適切な距離を保てないので、まさしく夢の世界となる。すなわち、距離を奪い去られた世界である。このような世界においてわれわれはただ<了解>することしかできない。
以上、かなり乱暴で飛躍のある論を展開してきたが、これをもって超現実主義に対して一応の理解を得たことにする。
*脱線:ところで主題から逸れるが、埴谷雄高は『夢について』で興味深いことを言っている。すなわち「白昼の論理=夢の世界」である。先に見たように夢の意識では偶然の継起がただちに受け入れられ疑問の余地なく進行するが、それは覚醒した意識においても変わらない場合があるというのである。これは一体どういうことか。
ここで埴谷はデカルトによる物体の存在証明を用いて説明を補強する。ちなみにデカルトによる存在証明の大まかな流れはこうである。
まず一切の知識を懐疑する主体以外に確実なものはない(第一省察)。次に、「考える私」が存在するなら、考える対象として頭の中にある観念も確かに存在することになる。
しかしその観念はどこからやってくるのか。例えば神を知らない人でも「完全で無限な全知全能性」という観念を思いおこすことができる。これができるためには自身も完全で無限でなくてはならないが、人間それ自体は有限存在である。よって無限性(神)は外からやってくる(第三省察=神の存在証明)。
私のうちには感覚という受動的な能力がある。これに対応する能動的な何者か、つまり当該の感覚を生起させるものが、わたしのうちか、あるいは私の外にあることが考えられるが、その能力が私のうちにないことは明らかである。
故にそれは私とは違った実体であると考えないわけにはいかない。したがって私の感覚の中に生起する物質的事物の感覚的な表象は、物質的事物そのものから与えられたにちがいない(第六省察=物体の存在証明) 。
以上のことをデカルト自身がどれほど本気で考えていたか分からないが、埴谷はこう指摘する。
それは、一旦コギト・エルゴ・スムが成立してしまえば、自動的に第六省察まで証明出来てしまうという指摘である。このことを取り敢えずデカルト(コギト)的明証性と呼ぶことにしよう。これの何が問題なのだろうか。
埴谷曰く、もし「考える私」の私自身が狂気のただなかにいようとも、コギト的明証性は成立してしまうのだ。言い換えると、考えるところの私が正常の状態にない場合であっても、通常とは違う形で物体の存在証明が出来てしまうのである。
その段階においては最早、眼前の物体を疑う意識はなく、ただ生起する物体の存在を次々に信じるのみである、たとえ本人が起きていたとしても。
これと偶然の継起をただ受け入れる夢の意識とは何が違うのかと埴谷は言うのである。