ロシア宇宙主義の研究者 福井祐生さんが読む『ロシアの博物学者たち』
工作舎の本って、どんな人に読まれているんだろう。
どんな役に立っているんだろう。
「わたしの仕事と工作舎の本」第1回は
ロシア宗教思想の若手研究者、福井祐生さん。
研究対象であるフョードロフとロシア宇宙主義について、
そして西欧とは異なる視座をもつロシア思想を研究する上で
参考文献の一つとなったダニエル・P・トーデス著
『ロシアの博物学者たち』について書いていただきました。
『カラマーゾフの兄弟』との出会いからロシア宇宙主義へ
はじめまして、福井祐生(ふくい・ゆうき)と申します。
東京大学大学院地域文化研究専攻の博士課程に在籍する大学院生です。19世紀ロシア宗教思想を研究しています。
私がロシアに目を向けたのは大学4年生の頃です。その時の私は、研究者に憧れを持ちながらも専門を決められずにいたのですが、政治思想史のゼミ(京大法学部)でドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の一節「大審問官物語」を読んで、どうしてもロシアをやりたくなってしまいました。現在は、この小説の生成に決定的な影響を与えたキリスト教思想家フョードロフ(1829-1903)*1 に関する博士論文を執筆しています。
フョードロフは、ごく簡単に言うと、キリスト教のアルファでもありオメガでもある復活を人間とその科学の力によって実現させる「共同事業(復活事業)」を構想した人物です。通常のキリスト教における復活は、神が人間の与り知らぬ仕方で外側から実現させるものです。それに対してフョードロフは、これまで生きてきた人々、今生きている人々、そしてこれから生まれてくる全ての人々が一丸となって神の意志に従い、ただの一人も取り残すことのない万人の復活を実現させることを考えました。
復活と言うと、死者が墓の中から起き上がってくるようなイメージを持たれる方もいらっしゃるかもしれません。ですが、キリスト教の復活はただ人間のみではなく、この宇宙の全体がもはや病も死もない全く新しい存在秩序の中に生きるようになることです。
そしてフョードロフの復活事業の重要な構成要素となるのが「自然統御」の思想です。彼は自然の中に災害、伝染病、さらには全ての生き物の死を不可欠にする力の支配を認めていました。この計り知れない力を人間による復活の実現に向けることはできないか。彼はこのように考え、戦争兵器を転用することによる気象の統御、宇宙に溢れる物理学的エネルギーの活用、磁力を利用した天体の運行の制御などを発案しました。
ここには人間が宇宙の中でどんどんと自らの働きを拡大し、宇宙の未来の歩みの舵取りを行なってゆくという「能動進化」の理念が認められます。1990年代、ソ連崩壊後のロシアの研究者たちは、フョードロフを中心に、同様の理念が認められる一連のロシア思想家たちをまとめる思想潮流として「ロシア・コスミズム(ロシア宇宙主義)」を語るようになりました。ここにはロケットの産みの親であるツィオルコフスキー(1857-1935)、生物地球化学という新しい学問を打ち立てたヴェルナツキー(1863-1945)を含めた多数が数え入れられています*2 。
注意すべきことに、彼らの考えは人間による自然の支配を正当化するものではありません。コスミストたちは人間が宇宙の中にあり、宇宙と共に歩む存在であることを強く意識していました。このようなアイデアは「人間宇宙主義」と呼ばれ、人間中心主義から区別されます。これは今日の「持続可能な発展」を先取りする思想です。
ロシア思想はこれまでヨーロッパ思想の文脈を共有しながらも、そこから一定の距離を取るようなかたちで形成されてきました。だからこそ西洋思想の本流から排除されてきた思想的可能性を保持しています。近代日本社会の基礎ともなったヨーロッパ思想が問い直されている今、ロシア思想を学ぶ意義は大きいのではないでしょうか。
ロシアの先人たちは進化論をいかに受容したか
そんな考えを持つ私にとって、ダニエル・P・トーデス(垂水雄二訳)『ロシアの博物学者たち』は非常に興味深い研究でした。
トーデスは19世紀後半の世界に広範な影響を与えたダーウィン進化論をロシアがどのように受容したのか、その独自性に注目しています。ロシアの知識人たちは概して、博物学者としてのダーウィンの仕事を評価しながら、その理論の背景としてある、当時のイギリス社会における自由競争を重視する思想傾向を見咎めました。それゆえに彼らは、マルサスに由来する「生存闘争」の比喩をダーウィン理論から分離しようとしました。
ロシアの博物学者たちは、生命の満ち溢れた熱帯地方で実地調査を行なったダーウィンとは異なり、シベリアの広大だけれども厳しい環境の中で思考しました。彼らはその結果、個体が生き残るための種内闘争が進化において主要な役割を果たすことを否定し、種が生き残るための種間闘争や相互扶助の要因がより重要であると主張しました。
トーデスの研究は、まさにロシア思想がヨーロッパ思想の影響を受けながらも、自らの視座から独自の見解を示した例を明らかにしています。
私はさらに、トーデスが明らかにしたロシアにおける進化論受容の特性はコスミズムにおける能動進化の理念とどのように結び付いてくるのだろうか、西洋思想におけるコスミズムの独自性はどこにあるのか、そのような複数の言語地域と学問分野を横断するような問題を深めていきたいと考えています*3 。
最後になりますが、この文章を執筆している2022年6月8日現在、ロシア軍によるウクライナ侵攻が続いています。
私の研究対象とする19世紀において、ロシアとウクライナは一つの複合的な文化圏を成していたのであり、私には両国を切り分けて考えることができません。モスクワのソクラテスと呼ばれたフョードロフは、青年時代の一時をオデーサで過ごしています。ヴェルナツキーはペテルブルクに生まれ、後にモスクワ大学教授やペテルブルクの科学アカデミー正会員を務めましたが、実はその父母ともにウクライナにルーツを有し、彼自身もハルキウに育ち、郷土の言葉や文化を終生愛しました。革命後の1918年、ウクライナ科学アカデミーを組織し、初代総裁となったのもヴェルナツキーです。そのような過去に触れる私には、ロシアがウクライナを蹂躙し、ウクライナがロシアに敵意を燃やす現状は耐え難いものです。
コスミズムは、人種や民族を互いに相容れない集団として固定化する動きに反対し、その閉鎖性を乗り越えた一なる人類を創出しようとする思想です。ヴェルナツキーは第二次大戦中に次のような精神的遺言を記しました。
「地質学的な進化過程は、ホモ・サピエンスやその地質学的な祖先であるシナントロプスなど、全てのヒトが生物学的に一つでありかつ平等であることに対応している」(「叡知圏に関する若干の話」*4 )。
彼は地質学的なアルキメデスの点に立ち、相互に争い合う人類が本来はみな同胞であることを我々に想起させます。現在のプーチン政権が極めて残虐な行為に及び、泥沼の戦争を続けている今だからこそ、ロシアそしてウクライナに生きた人々がこのように高邁な理念を築き上げてきたことを、両国を含めた世界中の全ての人たちに覚えていてほしいのです。
福井 祐生
福井祐生(ふくい・ゆうき)
1992年生まれ。専門はロシア宗教思想、東方キリスト教神学、宗教哲学。19世紀後半のキリスト教思想家フョードロフを中心に、ロシア宇宙主義(ロシア・コスミズム)について研究する。ロシア思想の面白さを伝えると共に、その視座から西洋思想史を捉え直していくことを目標にしている。東京大学大学院総合文化研究科 博士課程在籍。
詳しいプロフィールや研究については福井さんのホームページをごらんください↓
歴史の変わり目に出版された書
『ロシアの博物学者たち』について──工作舎より
『ロシアの博物学者たち──ダーウィン進化論と相互扶助論』は工作舎から1992年に刊行されました。
著者のダニエル・P・トーデスは1952年生まれ。ぺンシルヴァニア大学で科学史を学び、ジョンズ・ホプキンズ大学医学史研究所に在籍中の30代のときに本書を上梓しました。原著は『Darwin Without Malthus』マルサス抜きのダーウィンと題されています。
原著の刊行は1989年。この年、東欧の社会主義国で民主化が次々と起こり、ベルリンの壁が崩壊しました。1991年にソビエト連邦は解体します。
本書のあとがきで訳者の垂水雄二さんはこのように書いています。
『ロシアの博物学者たち』はまさに、世界秩序が音をたてて崩壊していく歴史の変わり目に刊行された本です。
革命前夜のロシアでダーウィンの進化論がどのように受容されたかを描く本書が、共産主義体制崩壊と期を同じくして刊行されたことは、自然科学と政治と社会風土の関係性を考える上で意味ある視座を与えるものだったように思います。
ロシア革命から100年余、ソビエト解体から30年が経過した2022年、ロシア軍はウクライナを侵攻し、多くの人々を悲惨な境遇に追いやっています。この異常な状況下で、文化が政治やナショナリズムの正当化に用いられかねない現実があります。一刻も早い停戦と平和的解決を願うばかりです。
今回寄稿いただいた福井祐生さんは1992年生まれ。工作舎が本書を刊行したのも1992年。30年前に刊行した本が、これからの若い研究者の方に読んでいただけるのは嬉しいかぎりです。
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