科学史研究者 鶴田想人さんが読む『植物と帝国』──わたしの仕事と工作舎の本#4
「わたしの仕事と工作舎の本」第4回は
科学史研究者の鶴田想人さんにご寄稿いただきました。
鶴田さんは、未知の世界を切り開き知の体系を構築してきた科学技術が
その一方、いかにして「無知」の領域をつくりだしてきたか
という観点から科学史を捉え直す研究をしています。
鶴田さんが挙げてくださったのはロンダ・シービンガー『植物と帝国』。
18世紀、カリブ海の植民地からヨーロッパに伝わった
ある植物の薬効──中絶をめぐる無知の歴史に光を当てた書物です。
ロンダ・シービンガー
『植物と帝国──抹殺された中絶薬とジェンダー』
鶴田想人
失われた知識の歴史を探究するアグノトロジー
「アグノトロジー(無知学)」という言葉をご存知だろうか。アグノトロジーとは、失われた知識の歴史やメカニズムを探究する歴史学のアプローチである。
私が初めてこの言葉に出会ったのは、海外の科学史のプログラムを調べていてハーバード大学のシラバスを眺めていたときだった。アグノトロジーという耳慣れない(しかし字面からその意味を推測できなくもない)言葉に興味を惹かれてシラバスを読んだ。アグノトロジーとは、私たちがなぜあることを知らないのかという、私が大学院で学んでいる科学史——知識の歴史——とは真逆の観点から歴史を見るアプローチだった。すぐにその嚆矢となった論文集Agnotologyを大学から借りてきて読んだ。編者はロバート・プロクターとロンダ・シービンガーという、当時はまだ名前を知らない科学史家だった。大学院の修士課程の1年生だった私は、その後アグノトロジーを自らの研究の視座に据えることになるとは思ってもいなかった。私は現在、博士課程で「作られた無知」という視点から科学史や思想史を見直す研究を行っている。
科学とは通常、“まだ知らないこと”を“知っていること”へと変えてゆくプロセスだとみなされている。しかし科学がどれだけ発展しても、私たちが手にしうる知識には限界があり、偏りがある。そもそも「私たち」という主語はいささかミスリーディングだ。科学によって「知る」のはまずもって科学者(の中でも、その分野に精通した一握りの専門家)であり、科学者はときに、さまざまな事情でその知識を市民——つまり「私たち」の大部分——には知らせないこともある(軍事機密や企業秘密など)。また、そうした“意図”がなかったとしても、知識は他のさまざまな理由で得られずに終わったり、広く普及しなかったりする。さらに知らないことは必ずしも悪いことではない。プライバシーから生物兵器の作り方まで、むしろ知ら(れ)ない方が良いこともたくさんあるのだ。プロクターとシービンガーの論文集は、私にアグノトロジーの広大な領域を開いて見せてくれた。
なかでもとりわけ私が惹かれたのは、意図されない形で作られる無知があるということだった。シービンガーの『植物と帝国』は、まさにそのような無知を描いたアグノトロジーの代表的な著作である。
無知の歴史を描くシービンガーの手さばき
失われた知識の歴史を書くのは難しい。歴史は通常失われなかったもの、すなわち偶然にせよ意図的にせよ残された史料に基づいて書かれるものだからだ。しかしその方法がないわけではない。白いキャンバスに白い円を描くには、その円の外側を塗りつぶせばよい。つまり“知られなかったこと”の周りを“知られたこと”によって丹念に埋めていけばよいのだ。シービンガーがオウコチョウという「抹殺された中絶薬」の歴史を書くときにも、そのような方法——いわば逆の実証(ポジティブなものによってネガティブなものを示すこと)——が必要であった。
オウコチョウ(黄胡蝶)とはカリブ海地域に自生する美しい花をつける植物で、ヨーロッパではもっぱら観賞用にされたが、カリブの女性たちの間では中絶薬として用いられていた。ヨーロッパでもこの植物が発熱などに効くことは知られていたものの、それが中絶薬にもなることは知られなかった。
この「知られなかった」ことが意味をもつためには、オウコチョウ以外の植物がよく「知られた」ことを示さなければならない。物語は18世紀を中心としたヨーロッパの植民地における「生物資源探査」の様子から語り起こされる。(本書の原書の副題は「大西洋世界における植民地での生物資源探査」である。)この時代、ヨーロッパ諸国は有用な植物を求めて世界中に医師や博物学者を派遣していた。彼らは現地の人々から植物の利用法を聞き出しては、本国に持ち帰って(あるいは近隣の植民地で)その栽培を試みた。砂糖やコーヒー、綿、タバコ、キナ(マラリアの特効薬キニーネの原料)などが全て「新世界」からの輸入品であることを思えば、当時の植物探査がいかに巨大なビジネスであり、その獲得競争がいかに熾烈で徹底したものであったかは想像に難くない。そこへ特異な空白として浮かび上がってくるのが、中絶薬として「有用」であるはずのオウコチョウについてのヨーロッパ人の無知なのだ。
アグノトロジーの観点から本書の要となるのは、第4章と「アグノトロジー」と題された結論だろう。そこではオウコチョウという植物自体はヨーロッパに渡り、観賞用に栽培されたにもかかわらず、その中絶薬としての効能がついに『薬局方』に記載されなかったのはなぜかが考察される。象徴的なのは、当時、女性の月経を促す通経剤の治験は多く行われたが、中絶薬や多産抑止剤の治験は行われなかったということだ。シービンガーは、誰かがそれをあからさまに禁じていたわけではないという。しかし重商主義のもと人口増加を奨励していた当時のヨーロッパ諸国の拡張主義的な政策が、医師や博物学者などがあえて人口抑制の手段の研究に向かうことを妨げたのではないかと推測する。「新世界の中絶薬にとって、社会通念という貿易風は逆風となった」(本書306頁)。つまり女性は子を産み育てるべきだとする社会の風潮が、意図せざる結果としての中絶薬への無知を育んだのである。
しかしシービンガー自身はどのようにしてオウコチョウの薬効について知るに至ったのだろうか。その導きの糸となったのは、18世紀初頭にある女性博物学者によって記された次の一節であった。
この「読む者の心を揺さぶる」一節は、シービンガーの最初の著書『科学史から消された女性たち』(工作舎、改訂新版2022年)にも登場した昆虫学者・画家マリア・シビラ・メリアン(1647–1717)のものである。『植物と帝国』は、メリアンのこの一節を——それも薬草学の本ではなく昆虫の変態に関する本の中に——発見し、その重要性を確信したシービンガーの慧眼と、それを壮大な歴史的文脈において読み解いた彼女の歴史家としての手腕の賜物である。本書はこのメリアンの一節に捧げられた、一冊の本の形をとった注釈なのだ。
もう一つの歴史を求めて
2004年に本書を上梓して以降、シービンガーは「ジェンダード・イノベーション」という取り組みを提唱し、その旗振り役となってきた。ジェンダード・イノベーションとは、研究開発のプロセスにあらかじめジェンダー分析を組み込むことで、生み出される知識や技術の“バイアス”(例えばシートベルトが男性をモデルに開発されたことで、妊婦や胎児を十分に守るものとはなっていないなど)を未然に防ごうとするものである。近年、シービンガーはジェンダーにとどまらず、人種、階級、障害、さらには環境破壊など、さまざまな抑圧の交差性(インターセクショナリティ)に目を向けることの重要性を強調している(注1)。
タイトルにも示唆されているように、『植物と帝国』はヨーロッパ社会における女性の抑圧の物語であるだけでなく、ヨーロッパ人による「植民地」支配や「自然」支配の物語でもある。そこにはすでに、(とりわけ第2章で生々しく描かれるように)男性/女性、白人/黒人、植民者(主人)/奴隷、宗主国/植民地、人間/自然といった複数の抑圧の交差する世界が描かれていた。
オウコチョウはまさにそのようなインターセクショナルな抑圧の象徴であった。メリアンの記すように、オウコチョウによる中絶はカリブの黒人・女性・奴隷たちにとって、ヨーロッパからの白人・男性・植民者(主人)たちへの(おそらく唯一の)抵抗の手段であった。ゆえにその知識がヨーロッパに伝わらなかった理由を、単にヨーロッパ社会のジェンダー・バイアスのみに求めることはできないだろう。それは植民地の人々が、ヨーロッパ人たちにその知識をあえて明かさなかったというもう一つの抵抗の産物でもあったはずだからだ(注2)。そう考えると、中絶薬について記したメリアンが女性であったことは決して偶然ではあるまい。先に引用した一節の終わりには、「私はこの話を彼女たち〔=黒人女性奴隷たち〕から直に聞きました」と記されている。(メリアンの訪れた)スリナムの黒人女性奴隷たちは、(宗主国の白人であるとはいえ)同じ女性であるメリアンにだけ、彼女たちの秘密をそっと打ち明けたのかもしれないのだ。
哲学者シモーヌ・ヴェイユのいうように、「あらゆる存在は別様に読まれることを求めて沈黙の叫びをあげている」(『重力と恩寵』注3)。歴史において、この「沈黙の叫び」を聴きとることは容易ではない。しかし歴史は実際そのような叫びに満ちているのであり、それがときに歴史家の耳によって捉えられ、その著作の中で大きな声となって響くことがある。そのように「沈黙の叫び」を”声”へと変えること、それこそが私が歴史学において実現したいと希うことだ。シービンガーの『植物と帝国』は、その難しい課題を見事にやってのけている。それが初読のとき以来、私が本書に惹かれ続ける理由である。
鶴田想人(つるた・そうと)
専門は科学史、科学論。東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程。初期近代の医学史・博物学史、なかでも植物学の歴史における知/無知と権力の関係をテーマに研究を行なっている。2022年9月、ロンダ・シービンガーを迎えて行われた国際講演会「ジェンダード・イノベーション」(東海ジェンダー研究所主催)でパネリストを務めた。日本科学史学会『科学史研究』2022年10月号の小特集「作られた無知の諸相──科学史・社会学・ジェンダー研究の視点から」編著。researchmapはこちら
『植物と帝国』について──工作舎より
『植物と帝国』(原題:Plants and Empire : Colonial Bioprospecting in the Atlantic World)は、工作舎が出版した4冊目のロンダ・シービンガー邦訳書です(翻訳は小川眞里子さん、弓削尚子さん)。
18世紀初頭、博物画家マリア・シビラ・メリアン(メーリアン)はオランダ領植民地スリナムの昆虫を鮮やかに描いた『スリナム産昆虫の変態』を出版し、ヨーロッパの人々を魅了しました。メリアンの昆虫画は現在も人気が高く、日本でも評伝や画集が出版されています。しかし本書においてメリアンが果たしたのは、薬草学上の新事実の伝達者、そして植民地の奴隷女性たちが行なってきた風習の証言者という役割です。
メリアンが書き記したわずかな一節に、300年の時を経て現代の科学史家シービンガーは応答し、オウコチョウの効能がなぜヨーロッパで「知られなかった」のかを膨大な資料を駆使して明らかにしていきます。まさしく鶴田さんが書かれたとおり、「本書はこのメリアンの一節に捧げられた、一冊の本の形をとった注釈」と言えるでしょう。
植民地の中絶薬がヨーロッパの医学や薬学の体系に容れられなかったのは、「植民地で収集された知識の欠如のためではなく、誰が女性の多産をコントロールすべきかをめぐって長引いた闘争の結果であった。」とシービンガーは述べています(本書314頁)。
人口の管理統制が近代国家の重要な命題である以上、妊娠や出産にかかわる知識や技術は常に政治と無縁ではいられません。
折しも2022年、米国の連邦最高裁が「中絶は憲法で認められた女性の権利」とする半世紀前の判断を覆し、人工妊娠中絶の権利は中間選挙の大きな争点となりました。日本の人工妊娠中絶は身体的負担の大きい外科的手術が主流で(2022年現在、英国の製薬会社が厚生労働省に経口中絶薬の承認を申請中)、手術に男性の同意を求める慣習も根強く残っています。そしてどの国においても、外国人労働者や移民、障害者など社会的立場の弱い女性は、妊娠や中絶でより困難な状況に直面しています。
科学は価値判断をくだす側ではなく、価値判断のための知見を提供する価値中立的な存在であるべきとされています。しかしシービンガーは本書で、その科学が意図せざる「無知」を生産してきたのではないかと問いかけます。今こそ、読んでいただきたい一冊です。(文責:李)
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