イライラとネガティブ/喧嘩両成敗と異なる正義の同等性のバランス/「だんドーン」:歴史の中の闇の現代ならではの描かれ方

9月26日(木)晴れ

今朝は4時過ぎに起きたのだが、どうも朝のうちから微妙にイライラするようなことがいくつもあって、ただこれは考えてみると普段ならそんなに気にならないことかもしれないなと思う部分もあって、自分の受け取り方がネガティブな方向に傾いているということはあるような気がしてきた。ただそうは言ってもそれはないだろうと思うようなこともあり、終いにはnoteに荒らしコメントがつけられていて笑ってしまった。まあそういう巡り合わせが良くない日というのは時々あるので、そういう日なんだなと思って過ごすしかない。

どうも朝からブログも書けないうちにどんどん時間が経ってしまうのだが、その中でも職場の資源ゴミを出しに行ったりヤンジャンを買いに行ったり草刈りをしたりしていたのだが、やらなければならない面積が広いので毎日少しずつしかやれてないのだけど、少しずつは見える景色が変わるのでまあそれが慰めかなとは思う。あまりに草が多くて足を取られて転倒したりもしたのだが、まあとりあえず怪我はしないで済んだのでそれはよかった。この時期に刈ればもう夏のようには勢いはないので、少しは状況はマシになるかなとは思う。

図書館で借りたのにまだ読めてない本に清水克行「喧嘩両成敗の誕生」があるのだが、今少しパラパラめくってみて、室町時代に敵討ちなどのケースがあった場合、それは正当な行為として認められたが、しかしやられた側も本来刑罰として重い殺人が行われたのにお咎めなしというのは納得いかない、という主張があって、結果的に両方を罰する、あるいは「損害を同等にする」という形で決着が図られる、ということがあって、どうもそれが「喧嘩両成敗」の起源らしい、ということのようだった。まだちゃんと読んでないのでこの理解は単純化し過ぎかもしれないのだけど、両方罰することが本来の趣旨というよりは、両方の主張の「正義」を認め、両方の顔を立てることから始まったことのようである。

赤穂浪士が幕府の「片手落ちの処分」、すなわち浅野家が切腹・改易になったのに対し吉良家は浅野を侮辱したにも関わらず処分がなかった、という討ち入りの正当化を行なったため、幕府も処分としては討ち行った浪士たちは切腹、吉良家は改易して当主はお預け、吉良家に養子を入れた上杉家も減封という処分になったわけで、まさに典型的な「喧嘩両成敗」になったわけである。

近年ではアカデミアでのオープンレターなどのいざこざの顛末や弱者救済を唱える団体の横暴に抗議するためにその団体などを会計を理由に訴えた裁判の成り行きなどをみていると、やはり正当性がどちらにあるかは別として「片手落ち」の感がすることが多く、民事裁判にしても近代的な裁判というものは日本人の心情には馴染まないものがあるのではないかという気はする。また一方的に「我は正義なり」という人が日本で嫌われがちなのは、やはりその裏に何かあるように見えて、その人が犠牲にしてきた人とのバランスが悪い感じがする、ということはあるのだろうと思う。(ちなみにそうした団体の一つである「コラボ」とはフランスでは「対独(ナチス)協力者」という意味なのだが、そのあたりは命名の際に気にならなかったのだろうか。)

もう一つついでに書いておくと、今面白いマンガの一つに泰三子「ダンどーん」という作品(週刊モーニング連載)があるのだが、これは「ハコヅメ。」という警察官マンガを描いた元警察官の作者が日本近代警察の創設者である大警視・川路利良の伝記であるのだけど、彼は薩摩藩の出身なのでまずは島津斉彬時代からの幕末の薩摩藩の歴史の中に彼の行動が位置付けられることになる。彼は薩摩の政敵の井伊直弼の彦根藩を探るためにその密偵組織である「多賀者」の中に犬丸という協力者を作り、二重スパイとして使うのだが、その頭が井伊直弼の愛人としても知られる村山たかであるという設定になっている。もちろんこれは史実とは違うのだが、この設定がなかなかうまくいかされていて、川路の活躍ぶりも割とエグいのだがそれにもましてたかの縦横無尽の働きが読んでいて最も成功したキャラ設定であると思わせる。

犬丸は結局二重スパイがバレて殺されるのだが、犬丸の子の太郎はそれ以前に薩摩藩邸に引き取られて庇われており、桜田門外の変を未然に防ごうとしたたからの動きは失敗して、太郎は結局大久保利通に引き取られることになる。史実でも大久保には子供の頃から支えた従者がいて、彼は明治11年に紀尾井坂で大久保が襲われて殺された時にも車を引いていて共に殺されてしまうのだが、おそらくはそれが太郎だったという話になるのかなと思って読んでいる。

今の展開は島津久光の率兵上京の際の事件、つまりは寺田屋事件の前夜というあたりなのだが、ここでも公武合体側としてたからは暗躍して、太郎をかどわかして利用しようとし、それをなんとか阻止しようとする、という話になっている。

この話もそうなのだが、人斬り親兵衛と言われる田中新兵衛も既に登場していて、彼は「マグロ船に乗っていた」という話になっていて、これは隠語で実際には薩摩藩が琉球を舞台に行っていた密貿易に従事していたという意味なのだという。これは幕府にバレたら薩摩藩が取り潰される行為なので幕府隠密などは見つけ次第斬り捨てるようなこともあったらしく、そういう闇を感じさせる人物造形が優れているなと思った。

この辺りは「ハコヅメ。」でもみられた得体の知れない闇の世界のようなものが、現実の警察マンガではやはり描くのに限界がある感じなのを、歴史ものだから闇を深く描けるということがあるのではないかと思った。

ただ、今までの日本の過去の闇を描いた作品では「カムイ伝」などもそうだが、その背景に「農民の貧しさ」が描かれている、つまり「貧農史観」とでもいうべきものがあって、それが広く共有された上にある意味やむを得ないものとしての闇みたいなものが描かれる、という構造だったような気がする。

しかしこの作品での闇の描き方はむしろポップというかもちろん貧しさにも言及はしているのだが、人物造形が白土三平とは全然違う、主人公の薩摩藩士たちからしてオールバックだったり金髪だったりツーブロックだったりするのでカムイ伝に描かれたような「無限の貧しさ」「その宿命の苦しさ」みたいなものとは描かれるものが違っている。

しかし現代にリアルとして立ち上がってくるのは恐らくはそういう貧しさではなく、どんなに貧しくてもユニクロやしまむらの服を着てれば表面上は金持ちともそんなに見分けはつかない現代ならではの「闇」の描き方なんだろうなと思ったのだった。


自分のセンターに何を置くか、みたいな話とか人の心を動かす、人を勇気づける元気付ける言葉の秘密は何か、みたいな話を書くつもりだったのだが少し角度が違うものになった。闇の世界を詳細に書くつもりはあまりないのでなるべく光の世界を描きたいのではあるが、こういうものはこういうものとしてみていかなければならないところもまたあるとは思う。

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