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「自分探し」と「知る」と「旅」 【彼女たちの場合は】
「他人に依存することで、自分の存在意義を確かめるタイプなんじゃないですか?」
ある帰り道、暖房の効いた深夜の中央線。人はまばらで、だから運良く座ることができた。
話のなかで、何の気なしにいった自分の言葉。
けれど次の瞬間には、ブーメランのように返ってきて、タチの悪い毒のようにジワジワと蝕まれていく。
理由はわかってる。自分もなにかに依存するタイプからだ。
否定されてきたから、失敗ばっかりしてきたから、理由は様々だろうけど、自信の無さだけが肥大化していって。
自信がないから、誰かに、組織に合わせて、イエスマンでいることが存在意義になる。否定しない存在は心地いいから求められるし、なにより誰かに依存するのはとっても楽だ。
誰かに付いて、必死に、疑いも持たず、思考を殺して、ただただ肯定する毎日。
そうして肯定の作業がとぎれた瞬間、例えば休日になると、ぽっかりと空いた心に愕然としてしまう。
自分てなんだろう。
何が好きなんだろう。
何が嫌いなんだろう。
何が趣味で何がしたいのだろう。
気がつけば、何もかもがわからなくなってしまっている。
―――
【逸佳には”望み”というものがないのだった。自分が望まないことだけがたくさんある。 -中略- 行きたい場所も行きたくもない場所もなく、とくにやりたいことがあるわけでもなくて、”ノー”だけがある逸佳にとって、”見る”ことはは唯一”イエス”なことだった。】
江国香織さんの小説、『彼女たちの場合は』の一説だ。はじめて読んだ瞬間、記憶に焼き付いた場面。
好きなことも嫌いなこともわからなければ、”見て”判断すればいい。趣味がなくても”見る”ことはできる。
何もわからない”自分”と問答したところで手詰まりになってしまうだけで、なおさら自信はすり減ってしまう。
まずは、たくさんを見るてみること。
たくさんの本を”見て”、たくさんの服を”見て”、たくさんの人を”見て”、たくさんの芸術を”見る”。 モヤっとするか、スッと入ってくるか、思考して、”イエス”と”ノー”を仕分ける。
あいまいなこともあるだろうけれど、それはきっとそのままでいい。右から左に受け流すんじゃなくて、考えを巡らせることが大切なことなのだ。
そうすれば、何かを作り出すことができなくても、まるで丸太を削って仏像を作るように、少しずつだけど自分の全体像を炙り出していける。
それを重ねていくうちに、”絶対に譲れない価値観”ってやつが見つけられるのだと思う。
本をたくさん読みなさい
目上の人に会いなさい
OB・OG訪問をしなさい
校外学習は博物館です
小中高大、これらのわけも考えず、ときには気怠さすら覚えてたけど、今なら意味の大切さがわかる。
文章を書く"イエス"。
写真を撮る"イエス"。
植物を見る"イエス"。
がんばって友達に合わせる"ノー"。
流行に合わせること"ノー"。
嘘をつくこと”ノー”。
この一年でいろいろなことを知った。写真を撮られるのが"イエス"だったのは自分でもおどろきだ。
自分探しで海外に行く気持ちも、なんとなくわかる気がする。きっとあの人たちはまだ見ぬ”海外”というものに、自分がどう感じるのかを知りたいのだろう。
たくさんのことを知る。
いっけん遠回りだけれど”自分”を知るには”自分以外のこと”を知るのが、一番のかんたんな近道なのかも知れない。