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#17 最初の電話対応(後編) 〜無残な初体験〜

電話に出たくないという気持ちからか、せめてもの抵抗として、ゆっくりと電話に手を伸ばす。

自分の手が受話器に近づくにつれて、心拍数があがっていくのがわかる。

(あー……もうダメだ……)

抵抗虚しく手が電話に到達してしまった。

その瞬間、不意に静寂が訪れた。

(え?)

緊張のあまり音が聞こえなくなったか。

いや、違う。

電話の呼び出し音が止まったのだ。

(と、止まった………)

ただ電話が鳴りやんだだけにすぎないが、頭の中では、爆弾処理班が危機迫る状況の中、残りわずかの時間で時限爆弾を止めたかのような重みのあるセリフがついて出る。

少し遠くの背後から誰かが電話対応する声が聞こえる。

何事かと振り返ると、別の先輩が先に電話対応をしてくれていた。

各自の席に電話があり、誰でも電話に出れるようになっている。

(助かった…どこのどなたか存じませんがありがとうございます!)

胸を撫でおろしていると冨樫さんが口を開く。

「あー先に取られちゃったね!とりあえず今は、電話優先で取っていいよ!新入社員の1番の仕事は電話対応だから!」

口調は優しいが、冨樫さんから次の電話は何があっても出るようにと釘を刺された形だ。

その釘は身体の芯まで突き刺さり、痛く、息苦しい。

次電話の対応に遅れて、他の誰かに取られることは、たかだか電話対応ごときに恐れ慄く情けない新入社員である事を証明するかのように思えた。

そして、遂にその時が来てしまった。

「プルルル!……プルルル!」

平凡な電話の呼出音が警報音のように耳の中で暴れて不快感が増幅する。

今度こそ、もう逃げられない。

いや、逃げてはいけない。

(出るぞ……電話出るぞ……行くぞ……いけ!!!)

電話を睨みつけ、恐る恐る受話器に手を伸ばす。

横目で冨樫さんからの視線を感じる。

それは絶対に電話に出ろという無言の圧であった。

重たい受話器を耳に当て、遂に初めての電話対応の火蓋が切って落とされる。

(やるしかねー……)

先攻はこちらだ。

まず、「はい」と返事をして、自分の会社名と部署名を名乗る。

「はい!……えー、」

(えっと…自分の会社名は……)

テンポの悪い間の後で緊張していることもあり、自分の会社名を噛み倒す。

「エッ、…▽□$ー*?ナ●コグッ、コミッ&*◁◑#@○の……ギ、ギジュ、技術部です!」

噛み過ぎてほぼ違う会社名を名乗った

自分の会社名すら上手く言えないほど、自分が緊張している事に気づき、更にテンパる。

その隙に相手は慣れた様子で名乗る。

「私、はせ…$¥▽…てっくあさ…◇*…です。」

(ん?ん?……はせ?あさ?なんて?)

相手の会社名も名前もうまく聞き取れない。

そんな事を焦っている間もなく自分のターンが回ってきた。

とりあえずの定型文を繰り出す。

「いつもお世話になっております……」

「お世話になっております!…△%…さかさんいらっしゃいますか?」

(ん?何さかって言った?……登坂?……小坂?……)

取り次ぐ先の人の名前も一部しか、聞き取ることができなかった。

(こーれは、ダメだ!)

何一つ満足に聞くことはできなかったが、一先ずこのピンチな状況から離脱するため、マニュアル通りの対応を貫く。

「はい!えー、少々…えー…お待ちください……」

電話の保留ボタンを押す。

それと同時に深い水の中で長いこと息を止めていた状態から水上に飛び出したかように、短く息をはいた反動で大きく酸素を吸い込む。

電話対応中、緊張のあまり呼吸を忘れていた。

横に座っている冨樫さんに目をやると、優しくこちらを見つめていた。

息を整え、冨樫さんに助けを求める。

「あの……はせ……なんとかテックのあさか?あさま?さんからなんですけど…」

「あー!はせしたテックの浅宮さんね!」

よく電話をして来るやつだったようで、虫食いだらけの伝言を冨樫さんは見事に修正する。

「で、誰宛ての電話?」

「えっと……とさかさん?こさかさん?」

「あー!保坂さんね!」

簡単な名前の1つも聞き取れなかった自分が情けない。

しかし、それ以上に断片的に聞こえた情報から誰から誰への電話か判明できたことに安堵した。

しかし、落ち着いている暇はない。

次はその保坂という人物に電話を取り次ぐため、そいつの所在を確認する。

早速、座席表に目をやる。

(保坂…保坂…保坂…保坂…………)

しかし、その紙ぺらのどこに目をやっても保坂という漢字が見つからない。

(え?どこ??どこ??なんで??保坂なんてここにいる??)

電話の相手を待たせているというプレッシャーで気持ちが焦っていく。

しかし、いっこうに保坂という名前は見つからない。

(いや!これいないな!)

諦めた。

「ここだよ!」

冨樫さんが座席表を覗き込み、いとも簡単に保坂さんの座席の位置を指さす。

そこには確かに保坂の文字があった。

(さっきまでいなかったじゃんか!!)

完全に焦って見落としている。

ここで自席に保坂さんがいれば、一声掛けて電話対応はそこで終わる。

(せめて……)

保坂さんの座席の方向に目をやる。

(頼む!せめて……座席にいてくれ!!)

「いないね!」

当然かのように冨樫さんが言う。

(いなーいのねー!!)

「でも、さっき保坂さんいたなー、ちょっと実験室行こうか!」

冨樫さんは慣れた様子で素早く席を立つ。

僕は言われるがままに冨樫さんのあとに続いて、実験室を奥の方まで進んでいく。

電話を保留にした状態で相手を待たせているというのに冨樫さんは落ち着いてる。

そんな冨樫さんの背中が少しだけ大きく見える。

突然、冨樫さんが足を止める。

「あ、いた、あの手前に座ってる人が保坂さん」

「あ、はい。分かりました…」

初めて話しかけるその保坂さんという人に無意識に腰を低くし、恐る恐る近づいていく。

「あのー保坂さん!はせしたテックの浅野さんからお電話です。」

ついに電話を取り次ぐことができた。

(やっと終わった……)

やり遂げたのだ。

自分の情けなさを痛感しつつも、初めての経験を終える自分を称賛する。

(よくやった……お前はよくやったよ)

薄暗く閉鎖的な実験室の中で自分の周りだけ、微かに爽やかな風が流れ、後光が差したよう感じる。

そして、気持がほころび始め、清々しさのような感覚が芽生える。

その矢先、保坂からの返答に耳を疑う。

「おー!ありがと!あー、でも、いないって言っといて!

(は?……)

爽やかな風は止み、後光は消え、刹那の思考停止を経て、緩み始めた心と身体を急激に強張らせるように心臓が大きく脈をうつ。

(はーー?なんじゃそりゃ!!いるやん!!出ろよ!!)

たった今、一人の人間を絶望へと叩き落としたというのに、保坂は全く悪びれる様子もなく、涼しい顔をしている。

「え?……あ、はい……分かりました。」

予想外の返答に動揺しつつも、それ以上に最初の電話対応に難しいオプションを上乗せされた気がして憤怒と困惑が駆け巡る。

非常識な奴だと思いつつ、一先ず、冨樫さんに言いつける様に相談する。

「あの…いないって言えって言われました!!」

冨樫さんは思いのほか、すんなり保坂のわがままを聞き入れる。

「そっか、じゃぁ、現在席を外してますって言って、それでも相手がなんか聞いてきたら、わかりかねますって対応して。」

「あ…はい……」

保坂の野郎が大人しく電話に出てれば済んだ話が、再び、受話器を取り対応する。

冨樫さんに言われた通り、電話対応すると思いのほか呆気なく電話が終わった。

僕の記念すべき、第1回目の電話対応は何も聞き取れず、電話の取り次ぎもさせてもらえずに無残に終わった

その後、電話対応を重ねていくうちに保坂さんの取った対応はそんなに珍しいものではなかったと悟った。

そして、電話対応が1年目の1番重要な仕事という冨樫さんの言っている意味が段々分かっていく。

電話対応は新人が任される最初の仕事。

しかし、それは定形に見えて柔軟な対応が求められる

さらに、所属している部署の人達の顔と名前を覚えると同時に、部署の皆から認知してもらう事ができる

その上で社外の人と接点を持ち、言葉遣いや対応力を身につける。

まさに最初の関門であり、社会に適用するための大事な第1歩なのだと思う。

「澤村君!電話対応お疲れ!この調子で頑張って!」

冨樫さんはどこか満足げで、最初の通過儀礼を終えた後輩を労うように声をかけてきた。

そんな気持ちを感じながらも、疲労感に任せて力なく返答することしか僕にはできなかった。

「はい……」

「そう言えば、今度、ベンダーから新しいトライ品届くから、一緒にチェックしよっか!」

僕は何が届いて、何をするのか全く理解できていなかったが、とりあえず返事する。

しかし、そのトライ品チェックという得体の知れない業務により、これまで生きてきた感覚や尺度が全く通用しない世界に足を踏み入れた事を思い知ることになる。

つづく

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