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【ひと味違う文章にレベルアップ!】描写力を鍛えよう(2017年4月号特集)


「伝わる文章」が書けるようになったら、これをさらに進化させ、「共感させ、刺さる文章」を目指しましょう。

剌さる一行を生かすも殺すも描写力

出来事を再現することで読み手に追体験してもらい、言葉で説明することなく体感してもらうそれを実現するのが描写です。描写は説明しても伝わらないような感覚、感情などを伝えるのに向き、「うれしかった」「悲しかった」とは書かずに、出来事だけを書きます。いわば、書かずに表現するというのが描写の極意

「武士の一分」として映画になった藤沢周平の『盲目剣谺(こだま)返し』は、失明した夫のために家名存続を願い出た妻の加世が、その代償として身体を要求され、死んだ気になって相手に身をまかせるという筋。それが発覚し、加世は離縁されますが、最終的に加世は許されます

「今夜は、蕨たたきか」
と新之丞は言った。
「去年の蕨もうまかった。食い物はやはりそなたのつくるものに限る。徳平の手料理はかなわん」
加世が石になった気配がした。
「どうした?しばらく家を留守にしている間に、舌をなくしたか?」
不意に加世が逃げた。台所の戸が閉まったと思うと間もなく、ふりしぼるような泣き声が聞こえた
縁先から吹き込む風は、若葉の匂いを運んで来る。徳平は家の横で薪を割っているらしく、その音と時おりくしゃみの音が聞こえた。
加世の泣き声は号泣に変った。さまざまな音を聞きながら、新之丞は茶を啜っている。

(藤沢周平「盲目剣甜返し」)

「うれしい」とは書かず、泣かせています「離縁したことを許す」とは書かず、「食い物はやはりそなたのつくるものに限る」と言わせています。絶妙と言っていい表現力です。また、主人公は盲人ゆえ、聴覚や嗅覚を使った描写が多く、これも情景を喚起させます。

共感させるには、自分の話ではないかと思わせること

共感や共鳴には「共」という字がつきます。これは「同じ」という意味。書かれたことについて、読み手が「私と同じ」と思うこと

しかし、「朝起きて歯を磨いた」では、「同じだ」とは思っても共感はしません。「どうせ汚れるのになんで磨くんだろう」ならどうでしょう。ちょっと共感されるかもしれません。共感されるためには、同じは同じであるけれど、何か心にひっかかっていたような思いを突く必要がありそうです。

又吉直樹・せきしろ共著の『まさかジープで来るとは』の中に、又吉直樹作の自由律俳句として、

「こんな大人数なら来なかった」

という句が載っています。数人の飲み会だと思っていたら十人以上いて、初対面の人と話すのは億劫だなあという感じでしょうか。

また、同書のせきしろ作に

「常連客と楽しそうなので入れない」

というのもあります。常連客の多い店って、なんだかアウェーだという疎外感があります。万人には共通しませんが、わかる人にはわかる。そういうところを突かれると、共感、共鳴という現象が起こりやすくなります。

情景を描いてその中に思いを込める

遠藤周作夫人のエッセイです。「主人が死んじゃうとは、つまりこういう事なんだ」が刺さりますが、これを支えているのが桜吹雪の情景。情景を書くと場面を共有できますから、読み手は「私も見たことある」と思い、情景に託された心情に反応して共感します。人間を描くのに自然をうまく取り入れた例です。

桜吹雪とはよく形容したものと感心するほど、本物の吹雪のように絶え間なく桜の花びらが散っていました。森の中央に置かれたベンチヘ座ったまま、音もなく雪のように降りしきる桜吹雪を眺めながら、二人はしばし忘我の時を過していました。二、三十分経ったでしょうか。主人が「俺もう帰るぞ」と申して立ち上りました。いつまで見ていても眺めつきせぬ風景でしたが、私も腰をあげました。
私はそのあと文京区の千石まで行く用事がありました。(中略)
主人が右側の小径を辿り出した時でした。一段と桜吹雪がはげしくなり、見送っている私の目の前で主人の姿はすっぽりと桜の幕の中に消えてしまいました「主人が死んじゃうとは、つまりこういう事なんだ」突然襲って来たこの思いと共に涙がとめどなく溢れて来てしまい、私は幼女の様に声を立てて泣いていました。夕暮れになって帰宅してからも、その日の午後に味わった悲しみを一人で持ちこたえることが出来ず、あろうことか私は直接主人にその話をしてしまいました。主人はじっと聞いていましたが、やがて「一茶の句に――死に支度いたせいたせと桜かな――という句があるんだ、辞世に詠んだ三句の一つだ」と呟くように申しました。
思えばあの日以来、私もいつかはこの様な別れの日が来ることを、無意識のうちに心のどこかで覚悟していたのかも知れません。

(遠藤順子「代々木公園の桜吹雪」)

物を出してそこにテーマを象徴させる

「その気になりさえすれば、いつだって死ねる。確実に死ぬための道具もある――そういう思いが、父親をこの齢まで生き延びさせた」が刺さります。
作者の兄二人は失踪、姉二人は自死していますが、その父親の暗く重い人生が拳銃に仮託され、ずしりと重い。物に語らせた小説の最高傑作。

私は、拳銃の包みを持って炉端に戻ると、それをあぐらの上にひろげてみた。拳銃を手に取ってみると、そんなことはありえないことだが、前よりも大分重たくなっているような気がした。(中略)
弾は五十発もあるのだから、一発や二発、試し撃ちぐらいはしてもよさそうなものだが、一発も撃っていない。一発も撃たないくらいなら、なぜ父親は拳銃と実弾を五十発も買って、それを死ぬまでこっそり隠し持っていたのだろう。
そんなことを考えているうちに、私は、父親の死後、初めてこの拳銃と実弾を見たとき、一瞬のうちに父親のすべてがわかったような気がしたことを思い出した。私は、父親の病気が再発したという知らせを受けて帰ってきて、毎日すこしずつ死んでゆく父親を見守りながら、村の郷士の子に生まれ、町の呉服屋の婿になり、白い子供を二人も持ち、娘たちには勝手に死なれ、息子たちには家出をされた男親というものは、一体なにを支えにして生きるものかと、そんなことばかり考えていたものだが、金庫の底から出てきた形見の拳銃を目にした途端に、父親のすべてがわかったような気がしたのであった。
この拳銃こそが、父親の支えだったのではあるまいか。その気になりさえすれば、いつだって死ねる。確実に死ぬための道具もあるそういう思いが、父親をこの齢まで生き延びさせたのではあるまいか。私はそう思ったのだ。

(三浦哲郎「拳銃」)

特集:「おもしろい」の条件
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※本記事は「公募ガイド2017年4月号」の記事を再掲載したものです。

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