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【文学賞っていつからあるの?】文芸公募百年史Part7


VOL.7 「帝国文学」「太陽」「文章世界」の懸賞小説

今回は、明治期の懸賞小説を締めくくり、「帝国文学」「太陽」「文章世界」の3懸賞小説を取り上げる。「帝国文学」は機関紙、「太陽」は総合誌、「文章世界」は投稿専門誌だ。

明治36年、「帝国文学」懸賞小説

夏目漱石が留学先のイギリスから帰国した明治36年、「帝国文学」懸賞小説が公募されている。主催は帝国文学会。第1等の褒賞は賞金50円と「帝国文学」5年分、第2等は賞金30円と「帝国文学」3年分、第3等は賞金20円と「帝国文学」2年分。こう書くとなんだか現物支給感があるが、明治時代の雑誌には今の数十倍の商品価値があったに違いない。

「帝国文学」は、東京帝国大学(現東京大学)の関係者が作った文学団体の機関紙。関係者とは井上哲次郎、高山樗牛、上田敏、上田萬年らのこと。井上哲次郎は日本初の哲学教授、高山樗牛も哲学者で、日本初の懸賞小説「歴史小説歴史脚本」の第2回入選者、上田敏は西洋の詩を翻訳した『海潮音』で知られる翻訳家、上田萬年は標準語を作った国語学者で円地文子の父親だ。

「帝国文学」は今はないが、当時は早稲田大学「早稲田文学」、慶應義塾大学「三田文学」と対抗する勢力を誇った。かつて掲載した作品には、夏目漱石「倫敦塔」、芥川龍之介「羅生門」、山本有三「津村教授」などがある(三人とも東京大学OB)。明治を代表する文芸誌だったと言っていいが、懸賞小説のほうはあまり盛況ではなかったのか、海賀変哲(『落語の落さげ』という著作がある)らを入選者に選び、第1回をもって終了した。

ちなみに東京大学というと芥川龍之介、菊池寛、久米正雄らが同人だった「新思潮」が有名だが、これは「帝国文学」に対抗し、明治40年に小山内薫が創刊させたもの。しかし、うまく行かずに休刊復刊を繰り返したのち、第3次~第4次「新思潮」のときに前出、芥川龍之介たちが活躍する。これがいわゆる新思潮派だ。

明治43年、「太陽」懸賞小説及脚本

「帝国文学」懸賞小説から7年後、雑誌「太陽」が「懸賞小説及および脚本」を公募している。
雑誌「太陽」というと、昭和39年に平凡社が創刊したグラフ誌を思い出す人もいると思うが、明治時代の「太陽」は博文社が明治28年に創刊させた総合誌で、懸賞小説及脚本は創刊15年目にあたる明治43年に実施されたものだ。

この懸賞公募の面白いところは、毎月懸賞を実施すると発表した際、全10回の選考委員を前もって告知したことだ。選考委員は下記のとおり。

第1回 小説・幸田露伴(代表作『五重塔』、幸田文は娘)
   脚本・森鷗外(代表作『舞姫』、森茉莉は娘)
第2回 内田魯庵(評論家、翻訳家、小説家)
第3回 永井荷風(代表作『濹東綺譚』)
第4回 小説・田山花袋(代表作『蒲団』)
   脚本・巌谷小波さざなみ(小説家、児童文学者)
第5回 坪内逍遥(評論家・代表作『小説神髄』)
第6回 高浜虚子(俳人、正岡子規に師事、小説家)
第7回 島村抱月(評論家、小説家)
第8回 後藤宙外(小説家、評論家)
第9回 島崎藤村(代表作『破戒』)
第10回 小山内薫(劇作家、演出家)

総勢12名の選考委員は錚々たる面々で、皆さんなら第何回に応募するだろうか。島崎藤村、永井荷風、幸田露伴、田山花袋あたり? これは現代作家でいうと村上春樹、平野啓一郎、高橋源一郎、蓮見重彦、丸谷才一みたいな感じだろうか。毎月募集だったからいいものの、「○○先生に読んでもらいたい」と応募を先延ばしにしてしまう人もいたに違いない。

賞金は100円。規定枚数は不明だが短編小説の賞で、当選作は「太陽」に掲載された。第1回~第10回の入選者の中には小山禄重、内藤吉之助、灰野庄平などの名前が見える。さらに第10回の入選者に「文学座」創立メンバーで小説家、劇作家、俳人の久保田万太郎がいる。わずか10回、1年間で終わりにするには惜しい公募だった。

大正6年、「文章世界」特別募集小説

次に紹介するのは、「文章世界」特別募集小説。主催は、「太陽」懸賞小説及脚本と同じ博文館だ。
「文章世界」は明治39年創刊。若者たちに実用文章の書き方を教える投稿雑誌だった。察するに文章の投稿欄がたくさんあり、入選すると添削講評されて掲載されたのだろう。指導者には辞書『言海』の編纂者、大槻文彦もいた。あの大槻文法の大槻先生が誌上で教えてくれるのかな、すごっ!

ただ雑誌として人気となったのは、田山花袋が編集責任者になってからだ。これ以降は文芸作品の投稿も募集され、これが主流になる。さすが作家だけあって、実用文はいいよ、文芸作品を送ってきてくれというわけ。選者は田山花袋、島崎藤村、正宗白鳥、徳田秋声、北原白秋などが名を連ね、「文章世界」は自然主義文学の拠点となっていく。常連の投書者には室生犀星、獅子文六、吉屋信子、内田百閒、今東光、横光利一、尾崎翠といったのちの人気作家がいた。何、この面々、やばすぎる!

明治期の応募要項は残っていないが、大正6年に公募された「文章世界」特別募集小説の結果が記録として残っている。選考委員は中村星湖が務めている。星湖は「萬朝報」「新小説」「早稲田文学」の懸賞の常連入選者でもあったが、この頃は選考する側になっている。

「文章世界」特別募集小説は、「文章世界」の中の「文叢」という1コーナーが独立したものだと言う。しかし、大正9年、「文章世界」の休刊とともに懸賞募集も終了した。

以下、余談。

明治期は印刷技術の輸入で新聞、雑誌が発行されるようになるが、書き手が不足しており、そこから投稿専門誌が誕生した。調べてみると「文章世界」は後発組で、「穎才新誌」を皮切りに「少年園」「少女界」「中学世界」「青年文」「懸賞雑誌」「文星」「女子文壇」「少年世界」「文庫」「新声」など投稿誌がかなりある。

特に少年少女が夢中になった。大人が相変わらず文語で書く中、若者は言文一致で自由に書く術を身につけた。いつの時代も旧弊を壊し、新しい文化を作るのは若者のようだ。

連載「文芸公募百年史」
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