子どもたちのなかに、わたしは何を残してあげられるだろう?
久しぶりに仕事のハナシ。
プロフィールにも書いているように、わたしの仕事場は子どもたちの生活の場だ。彼らは家庭のさまざまな事情によって親元を離れ、施設に措置されてきた子どもたちだ。
自ら保護を求めて家族との生活から決別してきた子もいるし、引き離されたことに納得していない子も、家族と暮らした記憶のない子もいる。
わたしの立場は支援者だ。
子ども一人ひとりの自立支援計画を立てて、それに基づいた支援をするのが仕事である。
じゃあ、計画の目的は何か?
それが「自立支援」を冠していることからわかるように、自立を目指すものだといえるだろう。でも「自立」って何かを考え始めるとたぶん、今日中には書き上げられなさそうだ。それだけ含意するものが大きくて、今のわたしにはちょっと手に負えない。
なのでとりあえず、自立とは「社会で生きていくこと」としておこう。それは納税者になることに限定されないし、支援者との関係を断つことでもない。むしろ人と繋がりながら(人の手を煩わせながら、そして人に煩わされながら)、一日一日を生きていくことぐらいのニュアンスだと思っている。
入所の措置には終わりがある。子ども時代にも終わりがある。
そう遠くない未来に彼らがわたしたちの元を離れて「社会で生きていく」ときまでに、彼らの中に何を残してあげられるか。それが問われるのがわたしの仕事なのだと思う。
ところで、子どもの権利条約では子どもたちの基本的な人権として4つの柱が示されている。
生きる権利、育つ権利、守られる権利、そして参加する権利だ。
そもそも子どもの権利条約というものが世界に生まれたのは、子どもの権利がなおざりにされてきたことへの歴史的な反省からである。どんな偉人も凡人も例外なくかつては子どもだったというのに、喉元過ぎれば熱さを忘れるもので、わたしたちはつい子どもの存在を矮小化してしまいがちだ。
泣けばうるさがる、求められれば「忙しいから後で」と制してしまう、「あなたにとっていいこと」を勝手に決めて押し付けてしまう。こういうことは、大人なら誰しもやったことがあるだろう。なぜなら大人は強い。数でも大きさでも力でも。
Childism、だからこれは大人の業なのだ。
生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利。この4つの柱は、わたしたちがChildismに陥らないための用心棒である。
子どもたちはありのままで生きて、育ち、守られ、参加する権利を有する。何も引き換えに差し出さなくていいし、大人はそれを最大限担保しなくちゃいけない。
これらの権利を当たり前に行使できる環境で暮らせる子ども時代があればこそ、彼らは「社会で生きていく」大人になれる。
わたしが彼らに残してあげられるのはきっと、そういうものだ。そうであってほしい。
まずは子どもたちに、伝えることから始めてみよう。
あなたはありのままで生きて、育ち、守られ、参加していいんだよ。あなたがそうできるように、わたしはできる限りのことをするよ。