よしもとばなな『キッチン』/愛おしいものたち
「今まで読んだ中で一番心に残っている一冊は?」
そう聞かれたとき、僕はこの本が真っ先に頭に浮かぶ。
よしもとばななの名作『キッチン』。
著者の作品はたくさん読んできたし大好きな作品はたくさんあるけど、この一冊はあまりに特別だなあと思う。
私がこの世で一番好きな場所は台所だと思う。
(吉本ばなな『キッチン』より)
一行目。
何度も何度も読んできたのに、この言葉に触れると瑞々しい新鮮な気分が胸に広がる。なんて感じのいい始まり方なんだろうと思う。
この一行から始まる物語に、何度も力をもらってきた。
何にも気力が出なくて、言葉も物語も上手く受け付けることが出来ない。そういうとき、ひどく悲しい気分になる。ただでさえいけてない状態なのに、好きなことさえ楽しめないなんて、と。
ただ、この作品は読むことが出来た。モヤモヤでいっぱいな頭の中から、物語の世界に飛び込むことが出来た。
好きだなあと、良いなあと思えることがとても嬉しかった。
どうしてこの作品は読むことが出来たのか、そして力をもらえるのか。
その訳はたくさんありそうだが、ひとつあげるなら、ゆっくりと希望に向かっていくみかげに追体験し、自分も回復していくような感覚になるところだ。
その感覚をつくりだしている要因に、素晴らしい表現と描写がある。
真昼、春らしい陽気で、外からはマンションの庭で騒ぐ子供たちの声が聞こえる。窓辺の草木は柔らかな陽ざしに包まれて鮮やかなみどりに輝き、はるかに淡い空にゆっくりと流れていく。
(同上)
読むと休日、春の明るい真昼の、健やかな空気の世界に一瞬で包まれる。
作中では、シーンごとに情景が丁寧に描かれる。的確で情緒的な表現に、自分の記憶の中にある、美しい情景の記憶が呼び起こされる。美しくも、自然な言葉が多くて身体にすっと馴染むのも好きだ。
涙があんまり出ない飽和した悲しみにともなう、やわらかな眠けをそっと引きずって、しんと光る台所にふとんをひいた。ライナスのように毛布にくるまって眠る。冷蔵庫のぶーんという音が、私を孤独な思考から守った。そこでは、けっこう安らかに長い夜が行き、朝が来てくれた
(同上)
あの悲しいとき特有の眠気を、こんなにもシンプルにバシッと言葉に落としてくれるとは。そういう体験が作中では何度も起こる。こうやって、表現の的確さから作品に没入し、追体験のようなことが起きるんだと思う。
もう一つ、心に残っているフレーズを。
闇の中、切り立った崖っぷちをじりじり歩き、国道に出てほっと息をつく、もうたくさんだと思いながら見上げる月明かりの、心にしみ入るような美しさを、私は知っている。
(同上)
著者はなんてつらく悲しい気持ちを、そこから再生するときに見えてくる、世界の美しさを、人の美しさをよく知っているんだろう。そしてそれを表現出来るんだろうと思う。
「世界は美しい、人生って素敵だ。」そう思わせてくれる本は元気が出る。
ただ、エネルギーが枯渇しているときは、その明るさを受け取ることが難しいことがある。
それでも、この作品は身体にすっと馴染んでくれる。
「そうね…私に。」できることがあったら言ってね。と言うのをやめた。ただ、こういうとても明るいあたたかい場所で、向かい合って熱いおいしいお茶を飲んだ、その記憶の光る印象がわずかでも彼を救うといいと願う。言葉はいつもあからさますぎて、そういうかすかな光の大切さをすべて消してしまう。
(同上)
とても好きな一節。読む度に相手に向ける大きな愛に、グッときてしまう。言葉にすることも大切だけど、こういう優しさも尊い。
僕も人との明るい記憶に救われた夜がいくつもあった。
このように、登場人物がお互いに注ぐ優しさが、しみじみと沁みるものばかりで、暗いテーマにも関わらず、物語は希望に満ちている。
いつかの本で、著者は「私の書く物語は必ず、最後は希望で終わらせている。」という話があった。(どの本で読んだか忘れてしまい見つけることができなかった...残念です。)
そう知っているからどんな時でも手に取りやすくて、どうにか1ページさえ開けば、大好きな一行目に触れ、そのまま物語の世界に流れ込むことが出来る。そうして読み終えた頃には少し回復をしている。
僕にとっての、処方箋のような作品。
迷いなく幸せを描くことだけが現代における芸術家の真の反逆だと私は信じています。
(よしもとばなな『おとなになるってどんなこと?』)
好きな気持ちに文章力が追いつかない。言葉にするのももったいないと思っていた本だけど、好きはきっとこれからも変わっていくから、今の気持ちを書き留めておこうと思って書きました。
初めて、久々に読みたいと思った方はもちろん、大切なあの人に届けたい。
そう思った方にも手にとってもらえたらとても嬉しいです。
P.S.
写真は、昨年の夏の終わり、希望みたいな明るい日のものを。
何度でも思い出して、元気をもらっているシーンです。
引用