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「読書感想文」天気予報士エミリ〜文學界編+友人との話〜
文學界8月号を購入するべく本屋さんを4軒ほど回ったが置いてなく、連日続く暑さで探すことが困難になっているのかなと思った。家に帰り冷房をかけ、スマホを手に取りAmazonで注文した。私はなぜ本屋さんで買うことにこだわっていたのかと疑問に思った。ネットで注文すれば探す手間も省け、早いのだ。けれど、探したいものは見つかっても、思わぬ発見というのは少ない。
届いた文學界を読んだが、私はやはり日本語を知らない。月評の意味をきちんと理解していなかった。冷静に漢字を見れば、「評」が入っているので、そこから評価、批評、評論など思い浮かぶ。感想ではないとわかるのに私はとても軽い気持ちで読んでしまった。というのも、このnoteで読書感想文を書く時、「好きを全面に出そう!」と決めていた。だから、どっぷりと好きにはまっていたわけだ。盲目とはこのことをいうのではないかと思う。Twitterで目にする感想も、肯定する内容が多かったこともあり、月評にびっくりしたわけだ。と同時に、月評に頷いている。なぜなら、私は医師が書いたというのが先行してしまって評論できないため、こういう意見もあるのかととても参考になった。私にはこういうバイヤスがかかりやすく、それがまた緩衝材の話と結びつくのだと反省した。再度、天気予報士エミリを読むきっかけとなり、新しい読書の楽しみ方を知る。このnoteで読書の楽しみ方は知っていたけれど、さらに今回知ることとなったわけだ。noteに読書感想文を書くようにしてから私は本を読むのが楽しくなった。読書感想文というと期日に出したら終わりで、自分で読み返すことなんてしなかったし、読書感想文を提出した人以外の人に読んでもらうことなんてなかった。なのに、誰かに読んでもらって、さらにはスキがもらえるなんて!ここに来て、読書感想文が大人になっても役に立つこともあると、夏休み終盤で半べそかいている昔の自分に言いたい。そう思いながらその願いは届かず、私は週末にでももう一度読もうかなと思っているわけである。
文學界の話から離れると、私は友人とこの小説の話をした。その中の1人の友人はすごい勢いで話す私を見て、私が感動したことや私の話は理解しつつも、その友人は「私には全く刺さらない内容だと思う」とはっきりと言った。刺さっている私が少し恥ずかしくなるくらいはっきり言われたので、戸惑ったがそれはすぐに消えた。十数年の仲の友人である私とその本が出会えたことを嬉しそうにしていたのである。この本に会えたのはいろんな縁の重なりだという。確かにそうだと私も思う。またある友人たちには、小説の中に出てくるお母さんの話や緩衝材の話を取り出し、自分の話と混ぜながら伝えると、すごく眉間に皺を寄せていた。そして、「そんなにしがらみがあって生きにくそう」と言った。私の境遇とエミリはやや似ているのかもしれないと思いつつも、エミリと同世代くらいのこの友人たちの感想が聞きたいと思ってしまった。私の友人たちに緩衝材というのはないらしい。私は婚約破談になった後だったことも関係しているのかもしれない。けれど、私にはこの境遇しか知らないから生きにくいもの何もこれが私の日常なのだ。ただ、言語化されたことで少し表面化した気はしている。でも、そうわかりつつも変えられないのが私なのである。
読む人が変われば、出てくる意見も変わる。それはごく当たり前のことであるが、違う意見を聞くのは楽しい。こうやって、また天気予報士エミリに魅了されたのであった。
と書き終えたところでもうすぐ偽善者の予約開始というツイートを見たので楽しみを噛みしめながらまた1日を始められそうである。
ここから変わるのかもしれない。