金の精(雨月物語・貧福論から)

 岡左内という禄が高く、誉れが高い武士がいました。

 ただ、左内は金への執着が強く、金を部屋中に広げて楽しむなどの、評判の良いとは言えない趣味を持っていました。

 左内の部下に金を貯め、黄金一枚隠し持っていた男がいました。

 左内は部下を呼びました。

「名刀でも千人の相手は出来ないが、金の徳なら天下の人を従わせることが出来る。金の徳を大事にするその心が武士に必要なのだ」

 左内はそう言って部下を褒め、十両の褒美と帯刀することを許したのでした。

 その話を聞いて、人々は左内はけちではなく、奇人なのだと褒めたのでした。

 ある晩です。

 その左内の所に小さな不思議な老人がやってきました。

「お前は誰だ、なぜここにいるのだ」

「私はもののけではない。人でもない。金の精である。お前さんの金に対する心に感心してあらわれたのだ」

 左内の問いに、老人は笑顔で答えたのでした。

「金の精なら、美しい女性の姿でくればいいのに」

「老人の姿だから、地獄耳でな、金の精にふさわしいだろう」

 左内のつぶやきに、金の精は笑いました。

 金の精は語ります。

 富に恵まれてもおごらぬ者を大聖人と言います。

 晋のセキソウに唐のオウゲンポウのようにいやしい者でないと富に愛されないと誤解する者が多いですが、富貴は天の時をはかり、地の利を生かす太公望のような者を言います。

 金は七つの宝で最上の物です。

 なぜ、いやしい者に金の徳が扱えるのでしょう。

 太公望は斉の国で、産業を教えたので、人が太公望の許に集まったのです。

 国を人を栄えさせるのが金の徳を知る者です。

 千金の子は市に死せず、富貴の人は王者と楽しみを同じとすると言います。

 淵深ければ魚よく遊び、山長ければ獣よくそだつと言います。

 千金があればさらし首にならず、富貴の人は王と同じなのです。

 そのように金の徳は深いのです。

 ただ、金は非情であります。

 善悪を判断するのは、天であり、神であり、仏であります。

 その三つは道であります。

 金は人を善悪で判断しないのです。

 清貧を徳とし、やせ我慢している者は賢人と言っても、頭が良くても、行いが良いと言えないでしょう。

 ただ、天をはかり、自分に時がこないと悟り、賢人として清貧を楽しむ者の姿はうらやましくもあります。

 富貴について、金の精と左門は朝まで語り合ったのでした。


 聞き伝える昔の話でございます

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