第9話|千葉県・成田市、神崎町編|あつかんオン・ザ・ロード|DJ Yudetaro
成田~青い空間で出会った極上の燗酒と蕎麦~
横浜駅から乗り込んだ成田エクスプレスの車内は私以外全員、布団くらいの大きさがあるスーツケースや荷物を抱えた人たちばかりで、トートバッグ1つだけの私は時々怪訝な目で見られたのだった。海外でもなく、空港にすら向かわず、その手前で熱燗を飲みに行くために降りる客は、私くらいのものだろう。
千葉に住むDJ Razzから「成田に燗酒が美味そうな店がある」と聞いており、行くタイミングをうかがっていたのが、とうとう実現したのである。
3月中旬、近隣の神崎町にある酒蔵「寺田本家」の「お蔵フェスタ」が5年ぶりに開かれるのに合わせ、その前夜に予約をとった。
その店は「鶴亀洞」という名前で、情報をみると「燗酒と蕎麦切り。」と書いてあったので、蕎麦が大好物の私は大いに胸を高鳴らせたのだ。
成田駅で降りたのは初めてかもしれない。DJ Razzと改札で落ち合い、鶴亀洞をめざす。
駅前ターミナルには成田市のマスコットである「うなりくん」の電飾が季節外れのアジサイの花をともなって置かれていたが、節電のためなのか明かりは灯っていなかった。
電線が地中化され、いかにも参道の風情がある商店街を歩いてすぐのところに店はあった。看板らしい看板はなく「燗酒と蕎麦切り。」というボードのみ置かれ、ブルーの扉の前に黒い暖簾がさげられている。
店内はカウンターのみで、私たちの席以外はすでに埋まっていた。
扉同様、ブルーを基調とした内装に目を奪われる。ブルーといっても、コバルトブルーを少し暗くしたような感じで、ロイヤルブルーというのだろうか、暗すぎず派手すぎず、神秘的な格調と落ち着きがあった。
一人で忙しそうに切り盛りしている壮年のマスターが「こちらへどうぞ」と迎えてくれる。
なかなか貫録と風格があり、初見は正直ちょっと怖いかなと思ったが、実に優しく誠実な方だった。
「どのくらいお酒を飲まれますか」「どこかの店で既に食事されてきました?」など、我々はまず胃袋と肝臓のキャパシティを尋ねられた。
それに見合った量の燗酒やおつまみを、コースのように次々お任せで提供してくれるという。どうやらほかの席も皆そうなっているらしく、メニューを見て注文している光景はみられなかった。
同行したDJ Razzがあまり酒を飲めないことを伝えると、「それならお連れの方の徳利からちょこちょこ分けてもらう感じでどうぞ」と微笑む。
この一連のやり取りは嬉しかった。
こういう個人経営の小さい店だと、先客と店主だけが盛り上がっているのに入っていけず、初見の客として超アウェー状態になってしまうことが多々ある。それが、こうやって話かけてくれることで、マスターと会話しやすくなるし、他の客と打ち解けたりするきっかけも作ってくれる効果があると思った。
「では1本目は、これでいきますね」と、すぐに一升瓶がカウンターに置かれた。「大正の鶴 純米吟醸」である。2017BYだから6年の熟成だ。
そういえば京都で訪問した「木になる酒店tane」さんでも最初に出されたのが大正の鶴だったことを思いだした。
まずは常温で味見。酒が温められるのを待つあいだ、左隣の4人グループと会話する。
どうやら私たちも含め店内にいる客は全員明日の酒蔵祭りに参加するらしい。
「埼玉から来て成田に宿をとったんですよ」
明日は相当な人出が見込まれ、混雑も激しいだろうという。
大正の鶴の熱燗が徳利で手渡された。盃を酌み交わし口に入れると、軽くも重くもない、旨み渋み酸味のバランスがとれた味わいが喉を通り、身体をほこっと温めてくれた。
そして最初の料理は、「トマトのお浸しのスープ」という小鉢。
湯むきされたミニトマトの赤が可憐な一品だ。
大葉のほのかな香りに乗って、まろやかな出汁の味とトマトの酸味、甘味が口の中で爽やかに混ざりあう。胃が軽やかになる最高の突き出しであった。
2本目の酒は見たことのないものだった。
「愛知の酒、『米宗 グッドラベル』というものです。アルコール度数20度の原酒を加水調整し寝かせたものですね」
グレーの淡い色にサムアップした指の絵、KOMESOU 2022BYという控えめなローマ字、その上になぜか信号機のように赤、黄、緑の丸いシールがならんで貼られている。独特の幽玄さがある面白いデザイン、見るからにレア酒である。
常温でいただくと飲みやすく、程よい甘味があって美味しい。燗を飲んでみたら表情が変わり、酸味がたち奥行きが深くなった。
続いて「れんこんとパクチー炒め」「和牛の人参和え」といった皿が続けて提供される。
ヘルシーで家庭的なつまみで、なんだか嬉しくなってしまう。お腹にたまらない程度に少量なのがまたよい。
「トマトはぜひスープを最後まで飲んでくださいね、これも燗酒のアテになりますから」
マスターの助言が適格すぎた。お浸しの、出汁の効いたスープを少しすすり、米宗で合わせるとたまらない旨さである。
隣席のご一行は相当な日本酒好き、いやマニアらしく、さっきから酒談義がとまらない。
私も口を挟み、山陰の酒の良さを語りあっていたら「ぜひこれを飲んでみて」とお裾分けをいただいた。
芸術的なジャケットが特徴的な瓶は「久米桜」という蔵が造っている生酛の酒で、精米歩合が90%だという。
盃に少し注いでもらって飲んでみると、ぐわぁっと独特の野性味が押し寄せる。明日訪れる予定の寺田本家の酒にも近いが、味わいはまた異なっている。
ここで、江戸における蕎麦前の定番、「蕎麦味噌」が供された。甘みと香りが強くまるでスイーツのようだ。これは絶対蕎麦も美味い!とこの時確信した。
3本目の徳利は「旭若松」の燗。徳島の蔵で、ごく少量しか生産されていないとのこと。純米の無濾過生原酒と書いてあった。口に含んだ第一印象は、丸くて甘い。だが、何とも深みがある濃醇な旨さで、口の中には心地よい余韻がいつまでも薫っている。素晴らしい酒だ。
隣のグループの女性が「美味しいでしょう。あたしは旭若松を飲んで燗酒にハマったの」と教えてくれた。成分がどうのとか、造りがどうのとかいう蘊蓄よりも、こういう情報が本当に信頼できると思う。
蕎麦味噌に最高にマッチしたのはいうまでもない。
そろそろ締めの蕎麦か?と思いきや、宴はまだまだ続くようだ。
「これでだらだら飲んでてください」と出された皿には「干し柿のクリームチーズ和え」「チーズ2種(ロックフォール、ミモレット)」「生ハム」「クラッカー」がのっていた。
燗酒、熟成酒のアテには最高のラインアップである。この一皿で無限に呑めるやつではないか!
ということで、スパートがかかり、止まらなくなった。
次の燗はグッドラベルの隣に並んで置いてあった「米宗 生酛 純米大吟醸」だ。
難しいとされる純米大吟醸の燗(私自身も結構失敗している)だが、ここまで味を落とさず燗をつけられるのか! と感心している間もなく、右隣に座っている地元の紳士方より当地の酒「不動」の2020BY熟成酒が回ってくる。
続いて「神亀 長期熟成」(2003BY、タンク熟成)の徳利が供され、さらには「これも飲んでみてよ」と、同じく神亀酒造が造っている「真穂人」(まほとと読むらしい)という酒もいただいてしまった。
真穂人は千葉で栽培された無農薬の酒米を使って造られているという。ラベルに書いてある米の産地を見ると、成田市、芝山町、多古町など、まさにこのあたりのエリアだった。埼玉の酒蔵なのに、どうして……? 何の縁が?と聞くと、面白い答えが返ってきた。
「神亀というのは、戦う酒蔵なんですよ」
神亀酒造といえば戦後の早い時代から全量純米酒&熟成にこだわった蔵だ。それゆえ税務署との衝突も多かったという話は私も聞いたことがあった。
「三里塚って知ってるでしょう? あそこで昔、どぶろくを造っていたりしてね……」
三里塚という地名に、はっとした。詳しいわけではないが、私だってそこで起きていた(起きている?)ことについて多少は知っている。
多くは語られなかったが、私は埼玉の蔵と成田の農家との接点を理解したのだった。
神亀らしい太さはありながらも、綺麗で優しい味わいの真穂人を流し込むと、マスターが蕎麦を茹でに厨房に入っていく。いよいよお待ちかねのフィナーレが始まる。
蕎麦はざるに小盛で、3種類が少しの間をおいて連続で提供され、そのどれもが絶品だった。
蕎麦のみずみずしさ、香り、甘み、喉越し、普段よく蕎麦を食べる私だが、すべてが最高レベルの美味しさだった。
せいろ蕎麦、田舎蕎麦、そして季節の変わり蕎麦として、ピンク色が綺麗な桜蕎麦。
変わり蕎麦というのは見た目はいいが味は少し薄っぺらいという例も多いが、ここのはちゃんと蕎麦の香りがしっかり立っていて旨いのだ。
会話が止まり、ひたすらDJ Razzと「うまい、うまい」とだけ呟きながら、一気に平らげてしまった。至福の時間であった。
田舎蕎麦を食べ、山梨県の長坂にある「翁」を彷彿させるかもと思っていたら、マスターは翁系列で修業されたということで腑に落ちる。
「最初から燗酒と組み合わせていたのですか?」と聞くと、当初、お酒は取引がある酒販店から言われるままに仕入れていただけだったということ。
ほかの蕎麦屋と差別化を図りたくて、燗酒を色々研究し、今の店のスタイルになったそうだ。
最後、ずっと気になっていた店の色調についてマスターに質問すると、「お客さんを入りにくくさせようと思ってね」と笑ったあと、「インパクトのある色合いにしたかった」という答えが返ってきた。
飲食店それも蕎麦と日本酒のお店としては珍しい色調だと思うが、「この内装に助けられている」という。
この店主は挑戦し続ける人なのだと思った。
カウンター越しに優しく見送ってくれたマスターと、背後で孤高の美しさを漂わせる青い壁がよく似合っていた。
神崎~微生物が主役、大盛況の発酵フェス~
翌日、「ものすごい人混みだからスリに気を付けた方がいい」というアドバイスを鶴亀洞で受けたことに恐れをなした我々は、DJ Razzの家からタクシーで神崎町に入った。
酒蔵祭りの会場に着くと、まだ午前10時だというのにかなりの人がいる。
寺田本家の「お蔵フェスタ」に加え、町内の近い位置にもう1つある酒蔵「仁勇」でも蔵祭りが開かれ、その2軒の周囲一帯も会場と化す発酵の大祭典である。
寺田本家には、裏手の神崎神社を通って行った。
酒は神様が造るから、どの蔵も神様の住まいがそばにある。
平坦な町にあって、そこだけ大木が生い茂る小山になっている神崎神社こそが、水を育み、蔵を護り、酒造りの源になっていると知れた。
寺田本家の「お蔵フェスタ」は酒蔵の建物を中心にしたメイン会場のほか、敷地内に「裏お蔵フェスタ会場」なる広場がある。イベントステージ、フード屋台、オーガニックショップの出店など、ピースフルでハンドメイドな空間は、まるで小規模な音楽フェスのような雰囲気だ。
まず我々は仕込蔵にて行われていた「蔵見学ツアー」に参加した。
どこの蔵に行っても内部に入ると薄暗く、空気もひんやりとしており、神々しく神秘的な何かを感じずにはいられない。
ここも例外ではなかったが、厳かというよりか、どことなく柔らかく優しい雰囲気だと思ったのは、平均年齢30代という若い蔵人たちの、逞しくも喜色溢れた表情のせいもあるだろうか。
通常の蔵では見学が制限されることも多い麹室まで、ためらわず土足で案内してくれた。
「皆さんがこうやってどんどん外部から菌を運んできてくれることで、また来シーズン美味しいお酒ができるんです!」
さすがは寺田本家、雑菌を嫌い麹菌を厳格に管理する蔵とは考え方が180度異なるのだ。
酒母室では酛摺り唄も披露され、一同からは拍手が起こる。
蔵に住み着く無数の微生物たちも、唄を楽しみ身体を揺らしているような気がした。
この日は天気は良かったが、とにかく風が強い。千葉の強風には慣れているというDJ Razzだが、強風に乗せられて飛んでくる花粉にやられてしまったようで、一時離脱。ドーピングするためドラッグストアに向かった。
その間、私はチケットを買い試飲を楽しむ。
まず飛びついたのは、醸造過程はもちろん、米作りからラベルのデザインまで徹底的に「自然に沿った手仕事」に拘った寺田のフラグシップといえる酒「懇」。試飲なのに飲み干すのが勿体なくなるほどの優しくかつ強い、しなやかでふくよかな味。これは凄かった。
また、木桶貴醸酒の「ささ」も、単に甘いだけではなく絶妙に自然酒らしさと木桶のフレーバーが交じり合っていて感動する。
「懇」も「ささ」も日常で手軽に買える価格帯ではないものの、寺田本家の進化を見られた気がした。
DJ Razzと再合流し、続いて「350周年記念映像上映&発酵トークセッション」を見る。
4年かけて完成されたという、寺田本家の歴史、理念、コンセプトが凝縮された60分の美しい映像だ。
「寺田は、人以外のものと力を合わせてものづくりをする」というワードが印象に残った。酒造りの主役はあくまで微生物であり、微生物を元気にさせるということを大事にしている。
「人は自然の中の生き物だから、自然に寄り添って生きるもの」これは、先代の教えだという。
お昼をすぎると、人出がものすごいことになってきた。さっきはすぐに買えた試飲のチケットも、蔵見学にも、長蛇の列ができている。直前まで上映会のトークに登壇していた寺田優社長が、もう広場で木桶のお披露目をしていた。
それを少し見てから寺田本家を引き揚げ、移動。
発酵食品やフードの屋台が並ぶ通りは肩が触れ合うほどの混雑となり、スリに気をつけろという忠告も頷けるほどだ。
行列に並んで焼き鳥や海苔巻きを買う。椅子や机は埋まってしまっているので、通り沿いの地面に座って食べた。
続いて、神崎にあるもう一つの酒蔵「鍋店」の「仁勇蔵祭り」へ立ち寄る。
こちらの酒蔵はとにかく敷地が広かった。建物も大きくて、蔵というか工場のような感じだ。
試飲できる「不動BAR」へ行くと、燗酒マシンがありHOTメニューもあったので、「水酛 純米原酒 熟成ブレンド」を頼み、運良く空いたテント内の椅子に滑り込む。
不動は種類が多いのだが、なかなかマニアックなところを攻めてくると思った。
「うーん、濃い!」
飲んでみると、水酛の濃醇な甘みと旨みが口内に押し寄せてくる。
ステージからは男声のアカペラ合唱が響いていた。
「北総エコー」という地元のコーラスグループのようだが、ふと見ると全員かなりのご年配なので驚く。
おそらく平均年齢は75、いや80に達しているかもしれない。しかし見事なパフォーマンスだ。
スタンダードな民謡を歌うのだが、年齢にしては豊かな声量と、真摯でひたむきな姿勢に目が釘付けになってしまった。
我々以外の客は飲食に夢中らしく、誰も気に留めていないようで気の毒になったが、私の胸のなかでは、北総エコーのソウルが最高のアテとなり、不動の熱燗と共鳴し身体が揺さぶられた。
さて、祭りはまだ終わっていなかったが、混雑のピークを避けるべくわれわれは早めに駅へ向かうことにする。
田んぼの中の小さなホームにはすでに大勢の人が電車を待っていた。
突如、青空にジェット機が姿を現す。機体が大きくとても近いので吃驚したらDJ Razzから「こんなの当たり前ですよ」といわれた。
下降する鉄の塊を見ながら、飛行機が飛び始めるよりずっと前から寺田本家や仁勇では微生物が飛び回り、酒が造られていたのだと思う。そして三里塚では米や農作物が作られていた。
「戦う酒蔵」という言葉が思い出される。
酔いが回り、足元がふらつきはじめた。熱燗とアカペラの組み合わせは、思ったより効くようだ。
成田のドトールで紅茶をすすり、しばし酔いを醒ましてから、解散した。
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